詩篇第四巻 97篇
この97篇は、93篇から99篇のテーマである「王の詩篇」と呼ばれる詩篇の一つで、その特徴は「喜び」である。
先日のブログにも言及されていたが、ダビデは契約の箱を運び入れ、ダビデの幕屋を建て、そこに賛美奉仕者を常駐させた。そのダビデの幕屋の特徴とは、喜びと楽しみである。
「シオンは聞いて喜び、ユダの娘たちも、小躍りしました。」(8)
詩篇には、踊りの賛美が出てくる。どんな民族にも踊りというものがある。踊りとは、心の内にある想いを身体で表現することだ。心の内を表現することを恥じたり、周囲の目を気にしたり、心が抑圧されていると、踊りがなくなる。踊りとは、心の解放された姿だ。
私自身、もっともっと踊りたいと思う。身体全体で、主への喜びを表現したい。でも性格なのか、民族性なのか、踊れる自分になるまでには、少々時間が要る。よほど盛り上がらなければ踊れない。若い時は、ストリートやディスコで散々踊ったのだが。
でも踊りたい。主への喜びを爆発させるようにして表現したい。ダビデが、契約の箱を運び上ったとき、恥も外聞もなく裸で喜び踊ったように、私も心から踊りたい。
「光は 正しい者のために蒔かれている。喜びは 心の直ぐな人のために。」(11)
ここには、喜びの種が蒔かれていると記されている。この喜びの種が、もっともっと花を咲かせ、実を結んで欲しい。踊れば踊るほど、この種は成長しくのだ。
ただし、それはまだ種なのだ。私たちが今いただいている喜びは、完全なものではない。喜べる時もあれば、喜べない時もある。しかし種は蒔かれている。やがて全被造物が贖われるその日には、喜びの実が完全に実るのだ。そして、この96、97篇の大讃美が永遠に捧げられる時が来るのだ。
その時には、恥も外聞もない、ただただ主を見上げて、思う存分に喜びを表現できるのだ。その日を待ち望んで生きていきたい。
天の父なる神さま。あなたを喜び楽しみます。踊りをもって、全身で主への喜びと楽しみを表現できますように。私の心を解き放たってください。内に与えられて喜びの種が豊かな実を結んでいきますように。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン
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