詩篇第四巻 95篇
1節から6節を読んでいて、今、自分も、主に向かって賛美したくなるような気持ち
に動かせられる見事な聖句である。
礼拝とは、心から主を賛美することが語られている。この作者は捕囚から帰還して神殿が
再建された喜びにみち溢れた気持ちになって礼拝したのだろう。
「さあ 主に向かって 喜び歌おう。私たちの救いの岩に向かって 喜び叫ぼう。」 1節
「感謝をもって 御前に進み 賛美をもって 主に喜び叫ぼう。」2節
「まことに主は大いなる神。すべての神々にまさって 大いなる王である。」3節
私は歌うことが大好きである。学生時代は、コーラス部に入ってよく歌ったものだ。カラオケブームになった時はめちゃくちゃ歌った。でも何も残るものがなかった。ただその場限りの自己満足にすぎなかった。だが、クリスチャンになって聖歌を歌うようになってからは違った。心の中に響いてくるものがあって、喜びで満たされて涙が出てくることが多々にあった。賛美するたびに喜びと感謝の気持ちでお腹の底から力強く歌っている自分がそこにいた。今でもそうである。賛美するたびに心が満たされるのである。聖日礼拝で主の前で賛美することができるということは、私の喜びであり感謝である。
4節から6節では、この自然界を造られたのは主であることが述べられている。そして、その自然界を造られた主に、来て、ひれ伏し、御前にひざまづこうと語っている。神への最高なる感謝と喜びを体全身でもってあらわしているのだ。ひれ伏すことが礼拝である。
7節から神の警告に変わっていく。
神の御声に聞くなら、あなたがたの心を頑くなにしてはならないと語っている。
どういうことかというと、8節以降で語っている。メリバや荒野のマサで起こったこと。つまり、神がなさったわざをみていたのにもかかわらず、先祖は、神ご自身を試み、試したということである。それゆえ、神は、心の迷った民に対して、
「そのため わたしは怒りをもって誓った。彼らは決して 私の安息に入れない」11節
ひれ伏して神の御声に聞き従わなければ真の安息に入れないということである。真の礼拝を捧げることはできないということである。私達が、神に真の礼拝をささげる心の在り方が示された。
祈り
主の御名を賛美します。
神を賛美し、神にひれ伏し、神の御声に聞き従っていくことができる日々を歩むことができますように導いてください。感謝して主イエスキリストの御名によってお祈りします。アーメン
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