2021年12月28日 ディボーション

詩篇第五巻 118篇


 詩篇の中には、「メシヤ詩篇」と呼ばれる詩篇があり、118篇は、その代表的な詩篇と言われている。

 旧約の時代、特に詩篇が捕囚後に編纂されたと考えると、メシヤ待望の思いは特別に強く意識されていたであろう。この詩篇には、やがて来られるメシヤを待望する信仰が賛美として表現されている。

 1節から4節で、主の恵みが歌われている。そして5節「苦しみのうちから、私は主を呼び求めた。」から始まって、苦しみや困難に対する「救い」が歌われている。14節に「主は、私の力、またほめ歌。主は私の救いとなられた。」21節「私はあなたに感謝します。あなたが私に答え、私の救いとなられたからです。」とあり、主は、救う神であることが明確に告白されている。

 

 そして何と言っても、22節と23節である。

「家を建てる者たちが捨てた石、それが要の石となった。これは主がなさったこと。私たちの目には不思議なことだ。」

 このことばは、文脈からみると、唐突で、理解し難いことばだ。捨てられた石がメシヤだという意味になるが、その実際の意味が分かった人は、おそらくいなかっただろう。なぜなら今もユダヤ人の多くは、この捨てられた石こそ、十字架にかかったイエスとは理解していないからだ。

 このことばの意味は、マタイ21章42節にあるように、新約の光で照らして初めて分かる。

 イエスと弟子たちが最後の晩餐をし、賛美をしながらゲッセマネの園に行くが、その時にこの詩篇118篇が賛美されていたと言われている。まさに、イエスご自身が十字架で命を捨てる(捨てられた石)となられたのだ。

 十字架の救いは、「私たちの目には、不思議なことだ。」、さらに躓きであり、愚かに見える。しかし、これが神の知恵であり、御心なのだ。


 この詩篇は「主に感謝せよ。その恵みはとこしえまで。」で始まり、そして閉じられる。神の恵みそのものであるイエス・キリスト、この方はとこしえに私たちの救い主である。心からの感謝を主に捧げよう!



 愛する天の父なる神さま。十字架で命を捨ててくださった、主よ、あなただけが救い主です。そして賛美と栄光を受けるべき、ただ一人のお方です。すべての感謝と賛美を、主イエス・キリストに捧げます。あなたの恵みはとこしえにあります。ハレルヤ! 主に感謝します! 主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン

閲覧数:30回

最新記事

すべて表示

マルコの福音書 7章 『外から入って、人を汚すことのできるものは何もありません。』 6章から8章にかけて、イエスさまの有名なパンの御わざが2回出てくる。1回目は男だけで5000人もの人にパンと魚を分け与え、2回目は4000人の人をパンと小魚で満腹にしたという物語だ。聖餐式の原型なのだろうか、神さまの惜しみない恵みを目の当たりにして、にわかに信じられず、右往左往しながらフリーズしてしまう弟子たち。さ

詩篇第五巻 150篇 『十字架は賛美の力の源泉』 とうとうグランド・フィナーレである。角笛と琴と竪琴と、タンバリンとシンバルのあらゆる楽器のフルオーケストラで、ハレル・ヤハ=神をほめたたえよ、と高らかな賛美をいざなう。 大げさな表現は微塵もないのに、ことばの一字一句が気高く揺るぎない。それは神さまが絶対だから。聖書のみことばには霊的な力があることを、ビシビシ教えてくれる詩篇だ。 「御力の大空で 神

詩篇第五巻 149篇 私の夫の両親は、娘と息子たちが幼い頃に描いたパパとママの似顔絵や、想い出の写真の数々を額装し、部屋中に飾っていた。 夫が6歳の時に初めて作った小さな折り鶴は、リビングルームのガラス戸棚の中にちゃんと居場所を与えられ、誇らしげに微笑み、喜んでいるように見えた。 色褪せたそれら一つ一つを見つめる両親の目は、とても優しかった。 その中に、私たち夫婦の写真が加わったのを見た時、胸が熱