2021年12月25日 ディボーション

詩篇第五巻 115篇


『御名が聖なるものとされますように』


 神さまが全能であることと、偶像が無能であることを音律よく対比しながら、真実な神さまを鮮やかに告白している。声に出して何度でも愛唱したい賛美だ。

「私たちにではなく 主よ 私たちにではなく ただあなたの御名に 栄光を帰してください。あなたの恵みとまことのゆえに。」1節

 冒頭の御ことば「私たちではなく」をリフレインすることで、胸に迫る祈りを感じる。アタマで理解するのではなく、聖霊さまの導きがなければ主の御名を賛美することができないことを気づかせてくれる。

 イエスさまが教えてくださった「主の祈り」も同じだと思う。

「天にいます私たちの父よ。御名が聖なるものとされますように。御国が来ますように。〜」

(マタイ6:9〜10)

 私たちが礼拝で主の祈りを告白する時は、「天にまします我らの父よ、御名があがめられますように、御国が来ますように。〜」

 と祈っているが、新改訳2017の聖書では「あがめられ〜」が、「聖なるものとされますように」に変更された。

「あがめる」という日本語の意味は、「尊いものとして扱う」、「この上ないものとして扱う」という意味だ。ところが元のギリシア語では「ハギアゾー」という「他のものと区別して聖なるものとする」という意味が込められているそうで、「あがめる」では聖性があいまいになってしまうから変えたのだそうだ。

 確かに私の中でも、聖なる神さまの御名に栄光を帰してください、と祈りきれているか自信が持てない。自分の意志ではなく、神さまの意志が地上で行われますように、と祈ることは、自分を高めるための自己実現=偶像を捨て、御心のままに従い生きるということ。できていないなあ。

 神さまを恐れ、神さまを信頼し、御心に従う。ありのままに御前に出れば、神さまは祝福してくださる。すごくシンプルなのに難しい。

 イエスさまは御心のままに生きて死んだ。

「わが父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らしてください。しかしわたしが望むようにではなく、あなたが望まれるままに、なさってください。」(マタイ26:39)

 聖夜に祈った。どうか聖霊さまに助けていただいて、このように謙遜な祈りができますように。メリークリスマス、イエスキリストの御名でお祈りします。アーメン

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