詩篇第5巻 110篇
『与えられた福音』
旧約時代に与えられた救い主の約束は、イエスがこの世に人としてお生まれになり、人として死に、そして、三日目によみがえられたことで成就した。「主は、私の主に言われた。「あなたは わたしの右の座に着いていなさい。わたしがあなたの敵を あなたの足台とするまで。」」(1)とは、福音である。
イエスが流された血は、私たちをすべての罪から解放してくださった。そのイエスは、乙女マリヤによって、この世にお生まれになったお方である。クリスマスも近くなり、私たちはイエスの誕生を祝い、喜びが街にあふれる時である。しかし、イエスの誕生は十字架に繋がっていくことを覚えたい。イエスは、私たちの罪の贖いのために、お生まれになったのである。
一般的に「イエスのはずかしめ」と言うと、十字架までの道のりを指すことが多いが、実はこの「イエスのはずかしめ」は、イエスが人となってこの世にお生まれになった時から始まっていると学んだ時は、驚いたとともにショックであった。普通、子が生まれると言うのは、喜びである。しかし、イエスの誕生は「はずかしめ」だったのである。イエスは人としてお生まれになったが、三位一体の神である。神であるお方が人になられた。人として生き、人として死なれたのである。想像してほしい。神が人となって、私たちと同じように生きることがいかに、私たちにとって恐れ多いことなのかを。しかし、救い主であるイエスは、私たちのためにそのような道を歩まれたのである。
出エジプト記23章は、シナイ契約の条項が書かれた章であるが、その中におもしろい条項がある。
「あなたの敵の牛やろばが迷っているのに出会った場合、あなたは必ずそれを彼のところに連れ戻さなければならない。あなたの憎んでいる者のろばが、重い荷の下敷きになっているのを見た場合、それを見過ごしにせず、必ず彼と一緒に起こしてやらなければならない。」(23:4−5)。
嫌いな相手の助けなどしたくないと思うのが通常である。しかし神はイスラエルの民に「あなたの敵であろうと困っている時は、助けなければならない。」と教えておられる。ここから、愛は感情ではない、行いである、と学んだ時、ハッとさせられた。イエスは、イエスを迫害する者たち、イエスを嫌う者たちのためにも、十字架にかかって死なれたのである。愛は感情ではなく、行いである、ということをイエスは私たちに証ししてくださったのである。
神であるイエスが、人として生まれ、人として死ぬという「はずかしめ」をもろともせず、全うされた理由は、私たちの罪を赦すためである。イエスの光は、私たちの心の闇を切り裂き、そこにある罪を明らかにされる。その明らかにされた罪から顔をそむけないで正直に悔い改め、イエスが人となってこの地上に生まれ、人として死に、墓に葬られ、三日目によみがえったことを信じるなら、私たちは永遠にイエスの光の中で生きていくことができるのである。
祈り:主の御名を賛美します。ダビデの時代に与えられた救い主の予言は、イエス様の降誕によって成就しました。恵みの時代に生きる私たちにはイエス様の再臨、そして永遠のいのちの約束が与えられていることを感謝いたします。その時が来るまで、どうか、あなたの福音を一人でも多くの方に伝えることができますように。行いをもってキリストの愛に倣うことができますように。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
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