2021年12月18日ディボーション

詩篇第五巻 108篇


『私の心は揺るぎません』


 詩篇108を読んで、あれ? いつもと逆だなと思った。

 ふつう詩篇の記者はまず、嘆きや恐怖、後悔や失望を神さまに訴える。そしてそれが賛美へと変わっていく、V字回復が常套だった。ところが108の冒頭1節は、

「神よ 私の心は揺るぎません。私は歌い ほめ歌います。私の心の底も。」

 と、100%の信頼を力強く宣言し、心の底から賛美している。なのに、6節あたりからトーンダウンしてくる。そして11節、

「神よ あなたは私たちを拒まれるのですか。」

 と、心がぐらぐら揺れはじめる。不安を哀願する。そしてちょっと尻切れとんぼ風に終わってしまう。

 なんか変だなと調べてみたら、108は、詩57:7〜11と60:5〜12を合体させたものだという。確かに詩篇は、旧約でも新約でも多く引用されている。でも合体させただけの108を詩篇の一つとして編纂したということは、神さまのどんな思いが隠されているのだろうか? 

 それをじっくりデボーションしたいと思う一方で、冒頭の「神よ 私の心は揺るぎません。私は歌い ほめ歌います。私の心の底も。」に、今日の私は強く励まされた。

 今私は東京で、3日間の強制隔離下にいる。スーツケースを置いたら足の踏み場がないほど狭いホテルで、冷え切ったお弁当がドアノブにぶら下げられていて、それを取る時だけ、ドアを開けて良いという監視下にいる。ピリピで牢屋にぶち込まれたパウロのことを思った。

 パウロは御霊に導かれるまま陸路や海路で伝道の旅を続けていた。ところがピリピで捕らえられてしまった。同労のシラスと共にハダカにされてムチ打たれ、木の足かせをはめられて牢に閉じ込められたのだ。(使徒16:22〜40)

 痛み、恐怖、ひもじさはいかばかりだったか。なのにパウロは真夜中に賛美を歌う。ほかの囚人たちも聞き入った。パウロは「神よ 私の心は揺るぎません。私は歌い ほめ歌います。私の心の底も。」と賛美したのだろう。

 私も隔離下、YouTubeで賛美を聴いて励みにしていた。ちょうどサムエル カンさんというゴスペルシンガーが、詩篇108の賛美を歌っていてとてもいい。一緒に歌いながら思った。私の心は揺るぎません、と宣言しているのは、揺るぐ弱さを体験しているからこそじゃないかな、と。自分だけだと信仰がぐらぐら揺れてしまうけど、軸足を神さまに預けるとピタッと定まることを知っている人の賛美だ。

「琴よ 竪琴よ 目を覚ませ。私は暁を呼び覚まそう。」108:2

 暁を呼び覚ますとは、夜通し祈って、夜明けを手繰り寄せるほど祈るということか。己の弱さを知っていたから、ダビデはパウロは暁を呼び覚ますほどに賛美し祈ってきたのだろう。

 神さま、私は暁を呼び覚ますほどの賛美の祈りをしたことがありません。パウロは囚人やローマ人の看守にバプテスマを授けるほどの賛美の祈りをしました。

 どうか内なる聖霊さまに助けていただいて、人に届く賛美ができますように。神さまから日々いただく愛を、新しい人とも分かち合えますように。キャンドルライトに心を寄せます。

 イエスキリストの御名で感謝して祈ります。アーメン

 

 

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