詩篇第四巻 103篇
『主をほめたたえよ』
出エジプト記を読むとわかるように、イスラエルの民はすぐに神の祝福を忘れる民である。食べ物がないといっては不平を言い、水がないと言っては不平を言う。挙句の果てには、偶像を作ってそれを拝んだりする。どうしてそのような民を神は選ばれたのか、その理由はわからない。しかし、これはそっくりそのまま、私たちに当てはまるものである。「信仰により、恵みによって救われた」ということを知っていながら、無い物ねだりをしている自分がいる。「神は私たちの必要を満たしてくださるお方」と分かっていながら、明日を心配してわずらってしまう者である。それなのに、どうしてそのような者を神は救い、赦されるのか。
詩篇103篇は、神のご性質が列挙されている。神は罪人を、赦し、癒やし、贖い、冠をかぶらせ、良いもので満たす。なぜなら神は、あわれみ深く、情け深く、怒るのに遅く、恵み豊かだからである。神はいつまでも争わず、怒っておられない。私たちを背きの罪から遠く離し、あわれんでくださる。私たちのすべてを知っておられ、心に留めてくださるお方である。ゆえに:
「わがたましいよ 主をほめたたえよ。
私のうちにあるすべてのものよ 聖なる御名をほめたたえよ。
わがたましいよ 主をほめたたえよ。
主が良くしてくださったことを何一つ忘れるな。」(1−2)
ダビデは心から神を愛した人物であるが、神に対して大きな罪を犯した人物でもある。ダビデ自らの体験はまさに、神は正義であると同時に、あわれみと愛に満ちたお方であることを証ししている。私たちも、ダビデと同じく、神を愛しているのに、神に対して罪を犯してしまう者である。しかし、信仰によって悔い改めるなら、神は私たちをあわれみ、赦してくださるお方である。私たちは愛され、守られ、赦され続けている。主をほめたたえることから、1日を始めよう。
祈り:
わがたましいよ、主をほめたたえよ。主よ、あなたの愛に感謝します。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン
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