詩篇第四巻 101篇
「信頼の道、赦しの道」
今日は2つの御ことばを黙想します。ひとつめは、
「私は 全き道に心を留めます。」(2節)
全き道とは、正しい道、義の道、というよりは、神さまを100%信頼する道、ということではないだろうか。自分が正しくあろうとしても必ずくじける。自分主体で神さまが二の次になりかねない。でも神さまを信頼して歩めば導かれ、道を外すことはない。
イエスさまは父なる神さまに全き信頼を貫き、十字架にかかられた。そして私たちの罪を赦してくださった。全き道は、十字架を生涯感謝する、赦しの道でもある。
私は今年の年度聖句に詩篇119:35の下記を提出した。
「私にあなたの仰せの道を踏み行かせてください。私はその道を喜んでいますから。」
詩篇119には道がたくさん出てくる。全き道、主の道、さとしの道、戒めの道、真実の道、おきての道、そして仰せの道。
私にとって、「仰せの道」と聞くと、なんとも素直な気持ちで従いたくなる。喜んで踏み行きたくなる。
だけど今日101:2「全き道に心を留めます。」を黙想して、心を留めるということはけっこう難しいというか、できていないなあと反省した。
私の中に、「高ぶる目とおごる心」(5節)がある。心が揺れて留まっていないこともままある。それでも、脱線しながらでも、仰せの道を踏み行かせてくださいと祈るしかないのだ。
2つめの黙想は、「私の家」(2節、7節)。これは神さまの家を指していると思う。
コロナ禍でリモート礼拝をするようになり、我が家も神の教会であることをリアルに感じられるようになった。コロナのおかげで生活の中に神さまがいてくださる時間が増えて一体化した。
「私は家の中を 全き心で行き来します。」(2節)
だからこんな御ことばも、実感をもって愛唱できるようになった。
先日水曜日のデボーションの記者が、ヨハネの御ことばを引用してくれた。
「だれでも私を愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます。」(ヨハネ14:23)
「わたしたち」と、複数だ! 父なる神さまとイエスさま、二人で私の家に来てくださるということか。無限のおしみなき愛。
ただしイエスさまの御ことばを守ったら来てくださるのだからね、高ぶらないでねと、私は私をいましめる。
神さま、あなたの家に住まわせてくださってありがとうございます。私はいやしい者ですが、全き道を歩かせていただきたいと祈ります。どうかあわれんで導いてください。鎮まって心を留めることができますよう、御力を貸してください。
イエスさまのお名前で祈ります。アーメン
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