2021年11月8日 ディボーション

『再臨の道を備える者』


 第二サムエル6章がこの68篇の背景にあると学んだ。サウルの策略、また自身の息子であるアブサロムの謀反により、エルサレムを追われたダビデに再び、エルサレムに戻る日がやって来たのである。しかも、契約の箱を携えてである。神はダビデと結んだ約束のゆえに敵を散らし、追い払われた。それらはまるで煙か、火によって溶け去るロウのように、であった。エルサレムは、神がイスラエルの民に与えると約束したゆずりの地である。再びエルサレムへの道を進む中、エジプト解放から約束の地を目指した自分たちの祖先を思い、その喜びはどれほどのものであっただろうと思う。特に、契約の箱を無事にエルサレムに迎えた時(第二サムエル6:14−15)の歓声や角笛の音などは聞こえて来るようである。また、イスラエルの王であるにも関わらず、喜びのあまり奴隷の前で裸になって踊ったダビデを想像すると、彼の信仰の直ぐさはまさに幼子のようであったと思わされる。


 イスラエルに勝利をもたらされた神は、孤独な者を住まわせる方、捕らわれ人を導き出される方、民に先立って進まれる方、いつくしみをもって、苦しむ者のために備えをされる方、日々、私たちの重荷を担われる救いの神であると語る。これは、ダビデがエルサレムを追われて以降、その所々で、神が彼に成されたみわざに対する賛美である。  

 そしてダビデは、救い主であるこの神は、「捕虜を引き連れて いと高き所に上り 人々に 頑迷な者どもにさえ 贈り物を与えられる」と語る(18)。パウロは、この箇所に、救い主イエス・キリストの啓示を見た。


「『彼はいと高き所に上ったとき、捕虜を連れて行き、人々に贈り物を与えられた。』「上った」ということは、彼が低い所、つまり地上に降られたということでなくて何でしょうか。この降られた方ご自身は、すべてのものを満たすために、もろもろの天より高く上られたではありませんか。」(エペソ4:8−9)


 いと高き所に上られたイエスは、人々に、頑迷な者たちにさえ、賜物を与えられたのである。私たちには、一人一人違う賜物が与えられている。なぜ、与えられたのか。それはその賜物を用い、神の栄光がこの地上に輝く日のため、イエス再臨のため、共に備えるためである。


「神に向かって歌い 御名をほめ歌え。雲に乗って来られる方のために道を備えよ。その御名は主。その御前で喜び躍れ。」(4)


 イエス・キリストは、必ず、再臨される。その日には、私たちも御前で喜び、躍ることとなる。王の王であるお方に、ほめ歌を歌おう。


「地の王国よ 神に向かって歌え。主にほめ歌を歌え。いにしえから 天の天を御されている方に。聞け。神は御声を発せられる。力強い御声を。力を神に帰せよ。威光はイスラエルの上に 御力は雲の中にある。」(32−34)


祈り:

神さま、贈り物をありがとうございます。どうか、この贈り物を通して、福音を届けることができますように。そして、救い主を今も待ち続けるイスラエルの人たちに、新約聖書への扉がもっと、もっと開かれますように。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。


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