詩篇第二巻 66篇
『みわざ』
「全地よ 神に向かって喜び叫べ。御名の栄光をほめ歌い 神の誉れに栄光を帰せよ。」1〜2節
出だしからトップギアで、賛美を栄光に輝かせよと叫ぶ66篇。しかし読み返すほど、この詩篇のスケールと奥深さに、私は焦点を見失いそうになる。
当たり前だ、神さまの救いの御技は驚くほどにアンビリーバブル。紅海を二つに割り、海を渡らせてくれるなんて、誰が想像できよう。
奴隷のようにこき使われていたエジプトから200余万人をも脱出させた御技に、イスラエルの民が喜んだのも束の間、神さまは40年間、荒野をさすらう試練を与えられた。
ヨルダン川を渡る御技にも助けられ、やっとのことで約束の地に入ったものの、いつか神さまの恵みを忘れて堕落してしまう人々。
バビロン捕囚の年月を加えると、出エジプトから4世代、5世代に渡るイスラエルの民が試練と苦難を味わったことになる。それでも忍耐の神さまは、救いの時を待ち続けてくださった。
「あなたのみわざは なんと恐ろしいことでしょう。」3節
この「恐ろしい」は、大いなる神さまへの畏敬。現代人の私は畏敬の念を忘れがちだ。
試練や苦難に遭遇するたびに頑なな心が砕かれ、罪を悔い改めてきたイスラエルの民たち。
「神よ まことに あなたは私たちを試し 銀を精錬するように 私たちを練られました。」10節
神さまが与えられる罪は、赦すため。御恵みを授けるため。私たちは精錬されて清められ、ピカピカになって賛美を栄光に輝かせるため、変わることができる。神さまの愛によって、クリスチャンは善きに変えられる。
なのに私は、アーメンしているだけにとどまっている。御ことばを聞くだけで、イスラエルの民のように神さまを信じ、命がけで”従っていく”ことをサボりがちだ。
「もしも不義を 私が心のうちに見出すなら 主は聞き入れてくださらない。」18節
後ろめたい、やましいことをしてるくせに、きれいごとを祈っていたりする。そういう自分が嫌でたまらないのに、悔い改めは長続きしてくれない。
イエスさまの十字架を自分ごとと感じたら、薄っぺらな自虐なんてできるはずないのに。
紅海を割ったことも、ヨルダン川もバビロンからの帰還も、神さまの奇跡の御技だけれども、イエスさまの十字架の死と復活はそれをはるかに凌駕するウルトラ御技だ。そのあがないを畏れながらも喜ぶことのできる、最高の恵みを感謝したい。
神さま、小さなイスラエルが全地、全世界に賛美を喜び叫んでくれたおかげで、ハワイの小さな島の小さな教会でも、あなたを賛美できることを感謝します。
この詩篇には「私たち」の複数形と「私」の単数形が出てきます。どうか主日礼拝の私たちの賛美だけでなく、日々いつも、私が神さまをもっと賛美礼拝できますよう導いてください。プライドなぞ捨てて、素直に祈ることができますよう、私を柔らかく練り直してください。
イエスキリストのお名前で祈ります。アーメン
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