2021年11月22日 ディボーション

更新日:2021年11月23日

詩篇82篇


『さばき主』


 82篇は、1節の「神は 神の会議の中に立ち 神々のただ中でさばきを下す。」が分からないと、主観的にしか捉えることができないと思う。

 この1節の最初の「神」は天地を創造された唯一の神のことである。その「神」が「会議の中に立ち」とあるが、その会議とは、ヨブ記1:6や2:1に書かれている神の子らやサタンも参加した御国会議のことである。唯一の神はその会議の中に立ち、神々にさばきをくだす、とある。この「神々」とは、神のことばを受けた人たちのことであるが、同時に、神に代わって人をさばく人たちのことでもある。この詩篇が書かれた時代、行政を司る長官や裁判官たちは、モーセの律法に従い、神に代わって、人をさばく権利が与えられていた。しかし、彼らはモーセの律法に反して、弱いもの貧しいものを不正にさばいていた。ゆえに、たとえ彼らが「神々」と呼ばれていようと、その不正によって彼らは人のように死に、君主たちのように倒れる、と神は言われたのである。

 そしてアサフは、我が君主ダビデが不正にさばかれている今、どうか立ち上がって、この地をさばいてください、と神に祈ったのである。


 82篇に出てくる「神」「神々」はともにヘブル語で「エロヒム」である。「エロヒム」は複数形、「エル」が単数形である。私たちの信じている神は「唯一神」である。ならば「エル」と呼ぶべきであるが、イスラエルの民は神を「エロヒム」と呼んだ。つまり、神は唯一でありながら「三位一体の神」であることを彼らは知っていた、ということである。「エロヒム」は「神」という意味の他に「さばき主」(judge)という意味もあるため、1節にある神は分けて理解する必要がある。

 旧約を学んで楽しいなと思うのは、ヘブル語にある隠語というか、言葉の裏にある文化的背景を知った時である。ヘブル語に限らず、異なる言語を学ぶ楽しさはそこにあると、私は思う。


 82篇のさばきは、モーセの律法に基づいたさばきである。「不正な裁判をしてはならない。弱い者をひいきしたり強い者にへつらったりしてはならない。あなたの同胞を正しくさばかなければならない」(レビ記19:15)。正しくさばくには、律法が必要である。今の時代も、罪を犯せば、国が定めた法律に従って裁きが下る。しかし、普段の生活においては、人はもちろん、自らをもさばいてはいけないと聖書は教えている。パウロは「私をさばく方は主です。」(Ⅰコリント4:4)と言われたように、さばきは主のものなのである。


祈り:

あなたのことばを受けた者として、あなたのことばに従い続けることができますように。私の心がいつも聖霊に満ち溢れますように。主イエス・キリストの名によって祈ります。アーメン。


参考資料:https://biblehub.com/commentaries/pulpit/psalms/82.htmhttps://biblehub.com/commentaries/pulpit/psalms/82.htm


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