2021年11月19日 ディボーション 

詩篇第三巻 79篇


 人は誰でも「もう自分の力ではどうすることも出来ない」という状況に置かれることがあると思う。

 自分の手で自らを破滅に導く原因をつくることもあれば、納得できる根拠がない不当な扱いを受けたり、攻撃の的にされることもある。

 どちらにせよ、このままではもうダメだという焦りの感覚に襲われ、不安や恐怖に怯える。生きる気力を失くしてしまうことだってある。

 そんな時、私たちをあわれみ、心を立て直してくださるのは神さまだ。

 なぜ、神さまは、私たちをあわれんでくださるのだろう。それは、私たちは神ご自身の作品だからだ。自分の手によって生み出した尊い作品が、傷ついたり壊れたりする様子を見て、楽しいはずがない。悲しみに打ち沈み、胸を痛めるに違いない。


 この79篇は、神を知らない国々によって、神の作品(神の宮や神の民)が破壊されたことを嘆き、作り手である神ご自身に、その修復を願い求めている詩。


「私たちの救いの神よ 私たちを助けてください。御名の栄光のために。私たちを救い出し 私たちの罪をお赦しください。御名のゆえに。」(9節)


 私はこの箇所を読み、ハッとした。

「御名のために」と祈っている。

「私のために」救ってほしいとは言っていない。

 ここに、クリスチャンとしてのあり方を示されたような気がした。


 私が常日頃、神さまに願い求めている内容は、神の栄光のためだろうか。違うような気がする。もし「御名の栄光のために」私自身が犠牲になる必要が出たとしたら、私は間違いなく、その場から一目散に逃げ出してしまうだろう。


 三浦綾子さんが書かれた本の中に、こんなお話があった。

 海外から日本に来ていた二人の宣教師が、北海道から青森へ渡る船に乗っていたとき、船が転覆。ライフジャケットが積み込まれていたが数が限られていた。その時、二人の宣教師は、自分たちが手にしていた救命胴衣を、他の若い二人の日本人に譲ったそうだ。そして、こう言い残し、溺れて死んでいった。「日本の将来には、君たちのような若い人間が必要なんだ。」


 今の私には到底まねのできない行いだ。

 けれど神さまは、このような人間に成長していくことを望んでおられる。自分のためではなく、他者のために生きる。それが結果的に、主の栄光につながることを、聖書を通して教えてくださる神さま。

 私も、御名の栄光のために祈り、実行に移せる人間になりたいと強く思った。


「私たちは あなたの民 あなたの牧場の羊です。私たちは とこしえまでもあなたに感謝し 代々限りなく あなたの誉れを語り告げます。」(13節)


祈り:

愛する天のお父様。落ち込んだり傷ついたりするとき、いつも寄り添い、あわれんでくださることに感謝します。自分が生かされている時間を、神さまへの信頼で満たす事ことができますように。主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン

閲覧数:24回

最新記事

すべて表示

マルコの福音書 7章 『外から入って、人を汚すことのできるものは何もありません。』 6章から8章にかけて、イエスさまの有名なパンの御わざが2回出てくる。1回目は男だけで5000人もの人にパンと魚を分け与え、2回目は4000人の人をパンと小魚で満腹にしたという物語だ。聖餐式の原型なのだろうか、神さまの惜しみない恵みを目の当たりにして、にわかに信じられず、右往左往しながらフリーズしてしまう弟子たち。さ

詩篇第五巻 150篇 『十字架は賛美の力の源泉』 とうとうグランド・フィナーレである。角笛と琴と竪琴と、タンバリンとシンバルのあらゆる楽器のフルオーケストラで、ハレル・ヤハ=神をほめたたえよ、と高らかな賛美をいざなう。 大げさな表現は微塵もないのに、ことばの一字一句が気高く揺るぎない。それは神さまが絶対だから。聖書のみことばには霊的な力があることを、ビシビシ教えてくれる詩篇だ。 「御力の大空で 神

詩篇第五巻 149篇 私の夫の両親は、娘と息子たちが幼い頃に描いたパパとママの似顔絵や、想い出の写真の数々を額装し、部屋中に飾っていた。 夫が6歳の時に初めて作った小さな折り鶴は、リビングルームのガラス戸棚の中にちゃんと居場所を与えられ、誇らしげに微笑み、喜んでいるように見えた。 色褪せたそれら一つ一つを見つめる両親の目は、とても優しかった。 その中に、私たち夫婦の写真が加わったのを見た時、胸が熱