詩篇第二巻 61篇
『真の強さ』
私たちに与えられているすべてのものは神による祝福である。それを知らないと、それらに固執し、それらを失うことへの恐怖に苛まれ、人を信用できなくなり、自らを孤立させる結果となる。神は与えもするが、取り去ることもされるお方である。神のご計画の全貌を知ることのできない私たち人間にとっては「予期せぬ災難」であっても、神の目からは、ご計画の成就のために必要なプロセスであり、それは決して予期せぬ出来事などではない。
主はダビデに、「あなたの家とあなたの王国は、あなたの前にとこしえまでも確かなものとなり、あなたの王座はとこしえまでも堅く立つ。」(2サムエル7:16)と約束された。しかしダビデの息子アブサロムの謀反によって、彼の王位は奪われ、イスラエルの民もまた、アブサロムについてしまった。様々な思惑が一斉に迫ったとき、ダビデは神を求めたのである。
「私の心が衰え果てるとき 私は地の果てから あなたを呼び求めます。どうか、及びがたいほど高い岩の上に 私を導いてください。」(2節)
新改訳聖書2017年版では「私の心が衰え果てるとき」と訳しているが、共同訳では「心が挫けるとき」、英語訳NKJVでは「when my heart is overwhelmed」とある。個人的には英語訳がしっくりくる。「overwhelmed」は辞書では「圧倒される」と訳されており、良い事にも悪い事にも、感情を表現するのに便利な言葉である。ここでは、否定的な感情を言い表すために使われていて、ダビデは、自分ではどうすることもできない問題、状況に「overwhelmed」圧倒され、心が挫けそうだから、主よ、どうか私の祈りに耳を傾けてください、と呼び求めたのである。そして祈りの中、主の守りの確信に導かれていくのである。
「あなたは私の避け所 敵に対して強いやぐら。私はあなたの幕屋にいつまでも住み 御翼の陰に身を避けます。」(3〜4節)
ダビデ始め、神に選ばれた人たちの凄さはなんといっても、このメンタリティーにあると思う。どんな過酷な状態、どうしようもできない、通常ならあきらめて当然と思えるようなときでも、信仰によって乗り越えていくのである。状態は非常に緊迫している。しかし、神が共にいてくださる、という確信は、信仰者の心の拠り所であり、それはまた、次の一歩を踏み出す勇気へと変えられていくのである。
心が圧倒されて、挫けそうになる時、主を見上げよう。主は、私たちと共にいてくださるお方、私たちを愛してくださるお方、私たちを聖め続け、御国へと導いてくださるお方である。主の御名を褒め歌い、福音を伝える者として、この身をささげよう。
祈り:
天の父なる神よ、あなたより与っていますこの福音を、どうか、それを求めておられる方々のところに届ける者とされますように。聖霊さまの導きがこの身にありますように。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
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