2021年11月 3日 ディボーション

詩篇第二巻 63篇


脂肪と髄をふるまわれたかのように 私のたましいは満ち足りています」(5節)


 主の臨在、主の御顔はいつも太陽の暖かさのように、月の眩い光のように私たちに四六時中注がれている。しかし、それを知らぬ時、また知っていても忘れた時、主は私達を試練の中に置く。


 詩篇の解釈には様々なものがある。この63編はバビロン捕囚の中にある作者が歌ったものだとする説がある。


神よ あなたは私の神。私は貴方を切に求めます。」(1節)


 捕囚により神の神殿から遠く離れた地で作者は苦難の時にある。しかし心の中の全てを主に注ぎ出す時、その場所は主の臨在がありどんな場所でも聖所となる。


私は あなたの力と栄光を見るために こうして聖所であなたを仰ぎ見ています。」(2節)

 

 主の臨在の中で”私の神”と呼べる父なる主に全てを打ち明けられる事はなんと幸せな事か。


 バブル景気と言う好景気のダメなパータンの例とされる80年代から90年代にかけて、我が家もその恩恵と煽りを受けた。そこには物質至上主義の法則があった。私も「死に至る病」に陥っていた。この死に至る病とは絶望の事。作者であるキュルケゴール、実存主義の創始者、デンマークの哲学、思想家がこう言っている。

「今の自分の病気が死に至る病であることを知らない人が死に至る病を病んでいるのあって、少しでもこのことを知っている者はなんとかしてその病から助かろうと努力するから、死に至る病を病んでいない。」


 また、こう語る。「死に至る病(絶望)を自覚し単独者として神と一対一で向き合うことで本来の自分を取り戻すことができる」この有神論的実存主義はこの詩篇の作者であり私だ。快楽の時には知り得なかった事、気づけなかった事を主は苦難の中に私を放り投げることによって気づきを与える。ある意味ショック療法のようだ。鈍感な私にはそうでもしなければ主だけが救いである事にたどり着けなかった。


 先日の日曜日の説教の話を引用すると、人生の引き算だ。それは主が私にへりくだることが必要と悟らせる。イエスキリストの十字架の贖いによって、父なる神と異邦人である私が会話できるなんてなんと心強いことか。それほど、神様とイエス様の愛は深い。肉の両親とも本音を話した事がない。しかし父なる神には全てを打ち明けることができる。高級車に、高級ブランドの装飾品で私の心は満たせなかった。今は作者のように、当時の最高級の食事である脂肪(ヘレブ・乳)と髄(デシエン)を振る舞われたかのように満たされ平安がある。


祈り

天の父なる神様、御子イエス様、そして聖霊様が今日も私の御霊に働かれている事を感謝いたします。

憎しみはごまかし隠しても その悪は露見する」(箴言26:26 、新共同訳)

主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで。

(詩篇118:29)

心の中に沢山のわだかまりがある私です。そんな私の心に、全てを打ち明ける事が出来る貴方の聖所を、いつも、どこでも作ってくださりありがとうございます。そして貴方が共にいてくださることを賛美いたします。感謝して主イエスキリストの御前にお捧げいたします。アーメン。

閲覧数:41回

最新記事

すべて表示

マルコの福音書 7章 『外から入って、人を汚すことのできるものは何もありません。』 6章から8章にかけて、イエスさまの有名なパンの御わざが2回出てくる。1回目は男だけで5000人もの人にパンと魚を分け与え、2回目は4000人の人をパンと小魚で満腹にしたという物語だ。聖餐式の原型なのだろうか、神さまの惜しみない恵みを目の当たりにして、にわかに信じられず、右往左往しながらフリーズしてしまう弟子たち。さ

詩篇第五巻 150篇 『十字架は賛美の力の源泉』 とうとうグランド・フィナーレである。角笛と琴と竪琴と、タンバリンとシンバルのあらゆる楽器のフルオーケストラで、ハレル・ヤハ=神をほめたたえよ、と高らかな賛美をいざなう。 大げさな表現は微塵もないのに、ことばの一字一句が気高く揺るぎない。それは神さまが絶対だから。聖書のみことばには霊的な力があることを、ビシビシ教えてくれる詩篇だ。 「御力の大空で 神

詩篇第五巻 149篇 私の夫の両親は、娘と息子たちが幼い頃に描いたパパとママの似顔絵や、想い出の写真の数々を額装し、部屋中に飾っていた。 夫が6歳の時に初めて作った小さな折り鶴は、リビングルームのガラス戸棚の中にちゃんと居場所を与えられ、誇らしげに微笑み、喜んでいるように見えた。 色褪せたそれら一つ一つを見つめる両親の目は、とても優しかった。 その中に、私たち夫婦の写真が加わったのを見た時、胸が熱