詩篇第二巻 63篇
「脂肪と髄をふるまわれたかのように 私のたましいは満ち足りています」(5節)
主の臨在、主の御顔はいつも太陽の暖かさのように、月の眩い光のように私たちに四六時中注がれている。しかし、それを知らぬ時、また知っていても忘れた時、主は私達を試練の中に置く。
詩篇の解釈には様々なものがある。この63編はバビロン捕囚の中にある作者が歌ったものだとする説がある。
「神よ あなたは私の神。私は貴方を切に求めます。」(1節)
捕囚により神の神殿から遠く離れた地で作者は苦難の時にある。しかし心の中の全てを主に注ぎ出す時、その場所は主の臨在がありどんな場所でも聖所となる。
「私は あなたの力と栄光を見るために こうして聖所であなたを仰ぎ見ています。」(2節)
主の臨在の中で”私の神”と呼べる父なる主に全てを打ち明けられる事はなんと幸せな事か。
バブル景気と言う好景気のダメなパータンの例とされる80年代から90年代にかけて、我が家もその恩恵と煽りを受けた。そこには物質至上主義の法則があった。私も「死に至る病」に陥っていた。この死に至る病とは絶望の事。作者であるキュルケゴール、実存主義の創始者、デンマークの哲学、思想家がこう言っている。
「今の自分の病気が死に至る病であることを知らない人が死に至る病を病んでいるのあって、少しでもこのことを知っている者はなんとかしてその病から助かろうと努力するから、死に至る病を病んでいない。」
また、こう語る。「死に至る病(絶望)を自覚し単独者として神と一対一で向き合うことで本来の自分を取り戻すことができる」この有神論的実存主義はこの詩篇の作者であり私だ。快楽の時には知り得なかった事、気づけなかった事を主は苦難の中に私を放り投げることによって気づきを与える。ある意味ショック療法のようだ。鈍感な私にはそうでもしなければ主だけが救いである事にたどり着けなかった。
先日の日曜日の説教の話を引用すると、人生の引き算だ。それは主が私にへりくだることが必要と悟らせる。イエスキリストの十字架の贖いによって、父なる神と異邦人である私が会話できるなんてなんと心強いことか。それほど、神様とイエス様の愛は深い。肉の両親とも本音を話した事がない。しかし父なる神には全てを打ち明けることができる。高級車に、高級ブランドの装飾品で私の心は満たせなかった。今は作者のように、当時の最高級の食事である脂肪(ヘレブ・乳)と髄(デシエン)を振る舞われたかのように満たされ平安がある。
祈り
天の父なる神様、御子イエス様、そして聖霊様が今日も私の御霊に働かれている事を感謝いたします。
「憎しみはごまかし隠しても その悪は露見する」(箴言26:26 、新共同訳)
「主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで。」
(詩篇118:29)
心の中に沢山のわだかまりがある私です。そんな私の心に、全てを打ち明ける事が出来る貴方の聖所を、いつも、どこでも作ってくださりありがとうございます。そして貴方が共にいてくださることを賛美いたします。感謝して主イエスキリストの御前にお捧げいたします。アーメン。
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