詩篇第一巻 35編
『神の裁きを求める詩篇から学ぶ』
小学生の子どもたちも葛藤の日々を送っている。先日こんな事があったと娘が話してくれた。当事者の娘ではなく、事件を第三者として見ていたもう一人の娘が教えてくれた。
社会の授業の一環でエジプト文明を学んでいる。その当時の物を作って提出するのが宿題だった。一人はピラミッドを粘土と段ボールで作り、もう一人は粘土で、当時の人々が使っていたナイフを象って教室に持って行った。クラスメイトの一人が見たいと言ったという。手に取ったとたん折り曲げた。もちろん粘土で作っているのだから折れる。真っ二つに折れた。見ていた周囲の生徒が怒った。作った本人は何も言わず、じっとしていたらしい。学校から帰宅した二人からその話を聞き、当事者の彼女を抱きしめて、『今日は大変だったらしいね‥‥』と言うと。『もっとすごいのを作る』と言った。凄いと思った。確実に彼女の心にはイエス様がいらっしゃると思った瞬間だった。
今日の詩篇は詩篇全体を内容によって分けると『神の裁きを求める詩篇』と言う区分に分類されるそうだ。とっても特徴がある詩篇。なぜなら、新約聖書時代に生きる私たちはこのように祈れとは教えられていない。
当時の時代背景として、主がイスラエル民族と交わしたモーセ契約に基づいて祝福と災いを受けると言う時代。領土侵略、略奪が日常茶飯事の時代に人々の、心からの想いを綴った詩がこの詩篇の背景にある。
「しかし、もしあなたの神、主の御声に聞き従わず、私が今日あなたに命じる、主のすべての命令と掟を守り行わないなら、次のすべてののろいがあなたに臨み、あなたをとらえる。」(申命記 28:15)
この時代に私が生きていたら、とっくの昔に主にのろわれている。恐ろしいことだ。しかしイエス様の十字架の贖いによって罪赦され、異邦人でもイエス様のお名前を通して主をしたい求める事ができる事はなんと素晴らしい恵みか。そして私達の目指すものは霊的に成熟すること。神様に敵と戦って下さいなんて祈る必要はないのだ。主はそれぞれに学びのチャンスを与えるのだから、敵のことは神様に手放して良いのだ。そう考えると心が軽くなる。
「しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」(マタイ5:44)
「しかし、これを聞いているあなたがたに、わたしは言います。あなたがたの敵を愛しなさい。あなたがたを憎む者たちに善を行いなさい。」(ルカ6:27)
「しかし、あなたがたは自分の敵を愛しなさい。彼らに良くしてやり、返してもらうことを考えずに貸しなさい。そうすれば、あなたがたの受ける報いは多く、あなたがたは、いと高き方の子どもになります。いと高き方は、恩知らずな者にも悪人にもあわれみ深いからです。」(ルカ6:35)
「あなたがたを迫害する者たちを祝福しなさい。祝福すべきであって、呪ってはいけません。」(ローマ12:14)
またパウロは箴言25:21~22から引用している。
「次のようにも書かれています。『もしあなたの敵が飢えているなら食べさせ、渇いているなら飲ませよ。なぜなら、こうしてあなたは彼の頭上に燃える炭火を積むことになるからだ。』」(ローマ12:20)
主、そして御子イエスさまは敵を祝福せよと聖書の中で何度も唱えてくださっている。忘れっぽい私に何度もリマインドしてくださる。イエス様ならどう行動するか考える。そのような事を日々の糧として歩んで行きたい。
自分の娘が、彼女の作品を壊したクラスメイトに対して行った行動はまさにイエス様ならどうするかと考えた行動だったかは分からない。私を、彼女そして周囲の兄弟姉妹から沢山の学びを得て、イエス様の似姿に近づくためにトレーニングしてくださる主に今日も感謝の賛美を捧げずにはいられない。神様はお見捨てにならないと言う自信が私を強める。
主よ、あなただけが私の律法です。あなただけが歩むべき道です。簡単に心が揺れてしまう私です。どうぞ、マタイ、ルカ、パウロ、他にも沢山の人々を通して気づきをこれからも与えて下さい。あなたが私にくださる全てに心から感謝いたします。
アーメン。
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