2021年10月5日 ディボーション

詩篇第一巻 34篇


『いつも主への賛美を』


 この賛歌の表題には、「ダビデによる。ダビデがアビメレクの前で、頭がおかしくなったかのようにふるまい、彼に追われて去ったときに。」とある。


 ダビデは、アビメレクという王様のところに逃れた。しかし、自らがサウルに命ねらわれているダビデ王だと身柄を捕らえられそうになる。そして、逃避行は続く…。

 そんな命からがら逃避行を続けるダビデから溢れた賛美、それがこの34篇だ。


「あのダビデ王か?」と身柄を確保されてしまいそうになるダビデは、ここでなんと頭がおかしくなったかのようにふるまい、門の扉に傷をつけたり、ひげによだれを垂らしたり…必死に自分自身を違う人間であると装う。(1サムエル21章13節)


 どうして自分がこんな目に…。普通に考えれば、そんな思いだってよぎるだろう。もし、これが私だったら、気が気じゃない思いでその場を去りながら、「早くこの状況から解放しくれ!もう辛いです!」という本音が心を支配すると思う。


 しかし、このダビデという人は、そのように別人を装いながらも、その場を必死にくぐり抜けて、開口一番、主に賛美をささげる。


私はあらゆるときに 主をほめたたえる。

 私の口には いつも主への賛美がある。1節


 たとえ私が、どんな状況、どんな境遇に立たされたとしても、私の口から神への賛美が消えることはない。なぜなら、神はいつも、どんな時も、賛美を受ける方、賛美されるべき唯一のお方だから。そして、私たちはそのまことの神をいつも、どんな時も「私の神」と告白して生きる者たちだから。


 人生いろんなことがある。嬉しい時や感謝な時はもちろん「ハレルヤ!」と叫びたくなる。でも、今日、私はダビデから教えられる。それは、どんな時でも「ハレルヤ!」なんだと。むしろ、その「ハレルヤ!」が、たとえ苦しい時でも力になるのだと。


 Facebookで、いつもどんな時も「ハレルヤ!」という賛美のことばを欠かさずに書いて投稿される方がいる。その方は日常の些細なことでも、なんでも「ハレルヤ!」とSNS上に綴る。誰かの投稿やコメントへの返事でも「ハレルヤ!」と綴る。


 私は、それにとても励まされる。「ハレルヤ!」がこの心で響くのだ。

 私たちのいる世界、この状況は移り変わるけれど、私たちが「ハレルヤ!」と歌い続けるこのお方は、今日も明日も永遠に移り変わることなく、移りゆく影もない。


 私の心を、この島を、この全世界をもっともっと「ハレルヤ!」で満たしていきたい。

 ダビデの招きとともに。


私とともに主をほめよ。一つになって 御名をあがめよう。3節


 ハレルヤ!このくちびるに賛美を与えてくださった主に感謝します。いつでも、どんな時でも、私はあなたを賛美します!ハレルヤ!アーメン!

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