2021年10月30日 ディボーション

詩篇第二巻 59篇


『私の力よ』 


 嘆きの詩篇は今週どんどんエスカレートし、今日の59篇ではマックス、詩人は命の危機に瀕して緊迫感がハンパない。

 神さまに自分を救ってくださいと祈るだけではなく、敵をののしり、天罰を願い、復讐がくだされることを切望している。


 水曜の祈祷会でパスターは、「怒りや恐怖を訴え、悪をさばいてほしいと毒を吐きだすのは、グリーフケアのプロセスにとって必要なのではないでしょうか。人に向かってではなく、神さまに向かってなら、どれほど吐き出しても大丈夫です。なぐさめと癒しを与えてくださいます」と、話された。

 祈りはきれいごとでなくて良い。神さまに心を注ぎだす、注ぎだすものは清濁併呑、ありのままで良い。それはよく分かる。

 だけど毒を吐いていると、憎悪表現が過激化して、負のスパイラルに巻き込まれたりしないのだろうか? 前の58篇も激しいヘイトスピーチだ。

「彼らが 溶けて消え行くなめくじのように 日の目を見ない 死産の子のようになりますように。」(58:8)

 私は若い頃に流産をしたことがあるから、いくら聖書とはいえ、こういうレトリックは痛い。

「彼らは 夕べに帰って来ては 犬のようにほえ 町をうろつき回ります。」(59:6)

 悪人を犬畜生と呼ぶほど詩人は清いのか? 罪人の私は犬畜生か? イエスさまはこう言われる。

「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人です。私が来たのは、正しい人を招くのではなく、罪人を招くためです。」(マルコ2:17)

 イエスさまの十字架のおかげで、旧約を超える者とされたことを感謝したい。


 なんだか今日のデボーションはモヤモヤが続く。

「力ある者たちよ おまえたちは本当に義を語り 人の子らを公正にさばくことができるのか。」(58:1)

 この「力ある者たち」とは、律法学者や権力者のことだろうか?

 59篇では一変、「力」は神さまを表す言葉として使われている。「私の力よ」、「御力」、「あなたの力を歌います」。

「私の力よ 私はあなたにほめ歌を歌います。神は私の砦 私の恵みの神であるからです。」(59:17)

 2つの「力」は、同じへベル語あるいはギリシア語の語源なのだろうか? 真に力のある者は神さまひとりという帰属語として、「力」の使い方を統一してほしい。なあんて、聖書に注文つけるなんて、千年万年早いですよね。生意気ごめんなさい。


 愛する天のお父さま、私たちに祈る特権を与えてくださり、ありがとうございます。祈りを聞いてくださり、ありがとうございます。

 暗殺されるかもしれない危機にあって、神さまに祈ることができる詩人を尊敬します。祈らずにはいられない御力を示してくださって、ありがとうございます。

 今週は牧人先生ロスでいじけています。モヤモヤが晴れません。でもあなたのなぐさめのおかげで、元気に賛美できる日が近いことを信じます。

 感謝して、イエスキリストの御名でお祈りします。アーメン


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