詩篇第二巻 58篇
渡り鳥は、冬になると、食べ物を求めて暖かい地へ移動する。何千キロ、何万キロもの長距離を渡ってゆく鳥は、自由気ままに飛んでいるようにも見えるが、実は、ちゃんと考えながら飛んでいる。
太陽の位置、星座、風向き、陸上の目印、におい、磁気、あらゆる情報を分析して航路を見出し、目的地を目指す。
神様は、どのルートを通って飛びなさいとは命令しない。ただ、鳥たちが安全に渡っていけるよう、様々なヒントを示される。
私たち人間にも神様は、問題解決のヒントや、物事を理解するための大きな手がかりとなるものを示してくださる。そして、人間は何のために生きるのか、どのように生きるべきか、道しるべを立ててくださる。その道しるべを無視して、自分の好き放題にさまよう人は悪しき者だと聖書は言っている。
悪しき者には目的地がなく、あちこち歩き回ってさまよい続ける。
「悪しき者どもは
母の胎を出たときから踏み迷い
偽りを言う者どもは
生まれたときからさまよっている。」(3節)
しかも、毒をもち、聞く耳をもたないコブラのようだと言っている。
「彼らには 蛇の毒のような毒がある。
耳の聞こえないコブラのように 耳を閉ざし
蛇使いの声も聞こうとしない。
巧みに呪文を唱える者の声も。」(4〜5節)
その後、6節〜9節までは、毒をもつ悪しき者の消滅を願う、おどろおどろしい表現が続く。「神よ 彼らの歯をその口の中で折ってください。」
私は、昨年はじめてこの箇所を読んだとき、自分の父のことを心に浮かべた。
幼少期、父からひどい虐待を受けて育った私は、父に対する激しい復讐心に燃えていた時期があった。
私を殴り、蹴り飛ばし、髪をつかんで引きずり回し、頭を縫うほどのケガを負わせた父。私が大切に飼っていた小鳥や金魚を握りつぶして死なせてしまった父が、地獄に堕ちることを願っていた。何とかして仕返ししてやりたいと本気で考えていた。
でも今は、この聖書の同じ箇所を読み、違和感をもつ自分がいる。
確かに父は、無抵抗な子どもや小動物に平気でむごいことをする残忍きわまりない悪しき者だ。
けれども、もし本当に、神様が父に罰を下し、父が無残な死を遂げたとしたら、それで私の気持ちはスッキリするだろうか、満足が得られるだろうか、父を懲らしめてくださった神様に、心を込めてありがとうと言えるだろうか。
たぶん違う。私はきっと、父を呪ったことを後悔するだろう。
私は父を憎んでいたのではなく、父に愛されたかっただけなのだから。
愛する能力のない人に愛を求めるのはもうやめた。愛は神様からいただく。
神様の愛に包まれて歩む人生、恐れることはない。誰かを恨む必要もない。
神様は、聖書を通して、私に生き方のヒントを示してくださった。
目指す地は天の国。
生きる目的は愛するため。愛することを学ぶため。たとえ悪しき者であろうと、愛する努力をやめないこと。その努力が、実り多い人生をつくっていくのだから。
辛いときにはグチってもいい。ドロドロした感情、毒を吐き出してもいい。遠慮せずに神様に甘えればいい。天の父は、黙って聴いてくださるお方だから。
祈り:
愛する天のお父様。聖書を通して私たちの取るべき態度や進むべき方向を示してくださり感謝します。神の家族ひとりひとりが、さまようことなく歩めるよう、大きな愛をもって見守ってください。主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン
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