詩篇第二巻 55篇
「悲嘆から平安へ」
「私は悲嘆に暮れ、泣き叫んでいます。」
この詩篇は、まさに嘆きの詩篇である。しかも、「私に鳩のように翼があったなら」とあるように、詩人は、その嘆きから逃れることが出来ない状態にある。
3節では、「それは、敵の叫びと悪者の迫害のためです。」と言っているが、12、13節では「まことに、私をそしっているのは敵ではない。―― それは、おまえ。私の同輩、私の友、私の親友のおまえなのだ。」と言っている。
外敵からの迫害と、味方であるはずの親友の裏切りに遭い、四面楚歌の状態の中で詩人の嘆きは最高潮に達する。
ここで、詩人は「死が彼らをつかめばよい、彼らは生きたまま、よみに下るがよい。悪が彼らの住まいに、彼らのただ中にあるからだ。」(15)と、はたして、これは神への祈りなのか、いずれにしても、内にある怒りを吐き出している。
神に向かってこのような事を言っていいのだろうか‥‥。隣人を赦し、愛し、敵をも愛しなさいというイエスの教えとは正反対の訴えである。これは、この詩人のようであってはならないという反面教師として受け取るべきなのか。
いや、この詩人の悲嘆(グリーフ)が癒されていくためには、このプロセスは通らなければならない一つの過程なのだ。
詩人は、敵に迫害されている窮地において、信頼していた親友に裏切られた。これは、大きな喪失体験に違いない。ここで悲しみと怒りを感じるのは、人間としての正常な反応だ。その悲しみや怒りを抑圧しないで吐き出すことは、「毒」を吐き出すことと同じで癒しに向かうためには必要なのことなのだ。
ただし、この毒を人に向かって吐き出すと、その毒を相手に飲ませることになる。悲嘆が拡がるだけで癒しは進んでいかない。
詩人は、あくまでも神に向かって祈る。「私が神を呼ぶと、主は私を救ってくださる。夕べに朝に、また真昼に、私は嘆き、うめく。すると、主は私の声を聞いてくださる。」(16、17)
祈る、つまり神に向かって叫ぶなら、そこにキリストの癒しが注がれる。私の悲しみ、怒り、毒は、まさに主の十字架の上にあるからだ。
この詩人は、すべてを神に吐き出した結果、「主は、私のたましいを敵の挑戦から平和のうちに贖いだしてくださる。」(18)とあるように、魂の平和を得ていくのだ。
そして詩人は、呼びかける。「あなたの重荷を主に委ねよ。」(22)と。自らの悲嘆が癒されたからこそ、今度は他者に伝えることが出来るのだ。しかも説得力が半端ない。
この55篇の流れは、おそらくグリーフケアー(悲嘆のケアー)のモデルとなるような内容でないかと思われる。聖書って、本当にすごい!
天の父なる神さま。私たちは、人生において様々な悲嘆を経験します。その苦しみの中で、あなたに祈れることを感謝します。主よ、あなたは、私たちの心の底まで知っていてくださり、言葉にならない呻きまで受け取ってくださいます。
あなたから与えられる魂の平安を感謝します。この平安の内に、今日も歩むことが出来ますように。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
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