2021年10月22日 ディボーション

詩篇第二巻 51篇


『ダビデの悔い改め』


 聖書の登場人物の中で、私が最も惹かれるのは、ダビデ。

 勇敢に戦って次々に華々しい勝利を収めた英雄だから、という理由でもなければ、ミケランジェロのダビデ彫像が素敵だから、という理由でもない。

 ダビデは、自分の罪を、ひとことも言い訳せず正直に認め、本気で後悔し、真摯な心で神に謝罪した。その素直さ、謙虚さ、誠実さに、胸を打たれるのだ。


 ダビデは信仰深い人だった。「神よ、主よ、あなたこそ神です」と言って、主を恐れ、主に祈り、決断の時には主に伺い、主の道を他者に広める人物だった。 

 にもかかわらず、欲望に負けて姦淫の罪を犯した。おまけに、自分の立場を守るために裏工作して、殺人の罪も犯してしまった。(第二サムエル11章)

 主は、預言者ナタンをダビデのところに遣わされた。ナタンが、たとえ話を用いてダビデを糾弾した時、ダビデは自分の犯した残忍な罪を真剣に恥じた。そして、弁解することなく非を認め、悔悟の涙を流した。(第二サムエル12章)

 この51篇は、ダビデが心の底から悔いている時に書かれた詩。


 間違った行いをしている人に対して、それは間違っているよと言える人間は少ない。そして、間違いを忠告してくれる人の言葉に聞く耳を持てる人は、もっと少ない。

 自分は間違った事をしているとわかっていても、それを他人に指摘されると腹がたつ。変なプライドが邪魔をして、素直になれず、逆ギレすることさえある。

 ちょっと言い過ぎたかなと後悔する。ごめんなさいと謝る。しかし、相手から返ってきた反応が自分の期待していたものと違った場合、反省の気持ちは一気に吹っ飛ぶ。自分が吐いた意地の悪い言葉を棚に上げ、「ちゃんと謝ってるのに!あの態度はひどい!」、と相手を悪者扱いして非難する。

 過去の私は、いつもこんな具合だった。

 つまり、口ではごめんなさいと謝っていても、心では自分が悪かったとは思っていないのだ。まさに、神様が最も嫌う偽善。

 相手の出方によって自分の態度を変える、高慢で尊大な性質が私にはある。だからこそ、ダビデが悔恨の情にかられて心の底から謝罪する姿に、グッときて涙するのかもしれない。


 主が定めた十戒にそむくという事は、神様との関係をぶち壊すこと。取り返しのつかない過ちを犯してしまい、もがき苦しむダビデの深い後悔が、手に取るように伝わってくる。


神よ 私をあわれんでください。

あなたの恵みにしたがって。

私の背きをぬぐい去ってください。

あなたの豊かなあわれみによって。

私の咎を 私からすっかり洗い去り

私の罪から 私をきよめてください。


まことに 私は自分の背きを知っています。

私の罪は いつも私の目の前にあります。

私はあなたに ただあなたの前に罪ある者です。

私はあなたの目に 悪であることを行いました。

ですから あなたが宣告するとき あなたは正しく

さばくとき あなたは清くあられます。

(1〜4節)


 誰の心の内にも、罪の種は宿っている。

悪い考え、殺人、姦淫、淫らな行い、盗み、偽証、ののしりは、心から出て来るからです。これらのものが人を汚します。」(マタイ15:19)と聖書に書かれている。

 私たちが信じる神様は、汚れた人間の心を清めてくださる。ダビデのように、本気で悔い改めるならば。

 時々、自分勝手な都合で神様をすみっこの方へ押しやってしまう自分にとって、この51篇は、心の中をお掃除し、まっさらでキレイな状態に戻してくれる浄化の詩篇。


祈り:

 愛する天のお父様、今日も御言葉に耳を傾けて鎮まる時間をもてること、感謝します。強情で頑固な私を、素直で謙虚な人間へと成長させて下さい。主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン


閲覧数:43回

最新記事

すべて表示

マルコの福音書 7章 『外から入って、人を汚すことのできるものは何もありません。』 6章から8章にかけて、イエスさまの有名なパンの御わざが2回出てくる。1回目は男だけで5000人もの人にパンと魚を分け与え、2回目は4000人の人をパンと小魚で満腹にしたという物語だ。聖餐式の原型なのだろうか、神さまの惜しみない恵みを目の当たりにして、にわかに信じられず、右往左往しながらフリーズしてしまう弟子たち。さ

詩篇第五巻 150篇 『十字架は賛美の力の源泉』 とうとうグランド・フィナーレである。角笛と琴と竪琴と、タンバリンとシンバルのあらゆる楽器のフルオーケストラで、ハレル・ヤハ=神をほめたたえよ、と高らかな賛美をいざなう。 大げさな表現は微塵もないのに、ことばの一字一句が気高く揺るぎない。それは神さまが絶対だから。聖書のみことばには霊的な力があることを、ビシビシ教えてくれる詩篇だ。 「御力の大空で 神

詩篇第五巻 149篇 私の夫の両親は、娘と息子たちが幼い頃に描いたパパとママの似顔絵や、想い出の写真の数々を額装し、部屋中に飾っていた。 夫が6歳の時に初めて作った小さな折り鶴は、リビングルームのガラス戸棚の中にちゃんと居場所を与えられ、誇らしげに微笑み、喜んでいるように見えた。 色褪せたそれら一つ一つを見つめる両親の目は、とても優しかった。 その中に、私たち夫婦の写真が加わったのを見た時、胸が熱