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2021年10月12日 ディボーション

詩篇第一巻 41篇


 ついに、ここで詩篇第1巻が終わる。ずっとダビデの歌が続いてきたが、明日(第二巻)からは、コラ人の歌が続き、またダビデの歌シリーズが始まる。

 そのように思うと、この41篇はこれまでの賛美歌集の第一巻を閉じる、ダビデによるクロージングソングとして、心に響いてくる。


 このクロージングソングを聴きながら、これまでの賛美者ダビデの歌を思い起こす…。そして、この賛美が溢れ出たダビデという人とその人生を想う。

 かつては誰からも見向きもされないような羊飼いの少年だった。そのような少年を主は選ばれ、ある日、巨人ゴリアテを倒し、一躍スターになる。そのこともあり、イスラエルの初代王様サウルから妬みを買われ、命からがら荒野を逃亡する散々な目に遭う。


 そんなダビデは、やがてイスラエル二代目の王様として、王国の基礎を築くのだが…

 彼の残した多くの主への歌は、そんな波乱万丈と言ってもいい人生から生まれた賛美歌集であることをしかと覚えたい。彼は音楽にも長けていたようだが、実際どんな風に、これらの歌を主に歌っていたのだろうか?それを想像するのが私は大好きだ。

 険しい荒野の道でも、孤独な夜でも、どんな時でも主を愛し、主に信頼した。それがこのような歌集になった。

 昔、聖書の時代の賛美歌CDのような名前で、各時代ごとを再現して作られたCDを聴いたことがある。あくまでもイメージでしかないが、ダビデの歌もこんな歌だったのではないか…?と楽器に合わせて響く歌声を聴いたことがある。


 喜びの日だけではなく、試練の日でも、心を主に向けて、賛美を歌い続けるダビデ。彼は人生いつでもどこでも礼拝者であることを貫き生きた人だったんだなぁ、とつくづく思わされ、感銘を受ける。そんな風に、人生どんな時でも、主を想い生きる信仰を私にも与えていただきたい。そのように思う。


 しかも、ダビデの賛歌を通して、私たちは神様の前にあって、どんなに赤裸々且つ、自分自身を曝け出していいか…そのことを知り、教えられる。「主よ」「主よ」と連発される叫び。この41章だって、「わざわいの日」とか「病」とか、正直ネガティブに感じることばも出てくるから、あんまり状況は良くなさそうだ。でも、それでも、主を求め、主に叫び続ける。

 さらには、「私の敵は」や「私を憎む者はみな」なんてことばも出てくるから、きっと憎まれたり、裏切られたり…ということもあったのだろう。


 でも、最後のクロージングソングを聴くと、結局、この人にとっては主がすべてであることが伝わってくる。その信仰の歌声が、私の心にも美しく響き、なんだかとっても励まされる。

私の誠実さゆえに 私を強く支えてください。いつまでも あなたの御前に立たせてください。

 ほむべきかな イスラエルの神 主。とこしえから とこしえまで。アーメン、アーメン。」12〜13節


 人生いつもどんな時も、主へのたぎる想い、主に対する信頼、それらを私もダビデのように信仰の歌にのせて、告白していきたい。そのように思わされた。


ほむべきかな イスラエルの神 主。とこしえから とこしえまで。アーメン、アーメン。


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