詩篇第一巻 40篇
『救い主』
主は、助けを求める者の叫びを聞いてくださるお方、また滅びの穴、泥沼から引き上げてくださるお方、そして、神への新しい賛美をこの口に授けてくださるお方である。主の守りの中で生きるとは、なんという安心、喜びであろうか。ダビデは、「わが神、主よ、なんと多いことでしょう。あなたがなさった奇しいみわざと、私たちへの計らいは。あなたに並ぶものはありません。語ろうとしても、告げようとしても、それはあまりに多くて数えきれません。」と歌っている。
ダビデは、そのような感謝の祈りをささげつつも、差し迫る問題を目の前にして、「主よ みこころによって私を救い出してください。主よ 急いで私を助けてください。」(13)と祈っている。また、彼を滅ぼそうとする者たち、彼のわざわいを喜ぶ者たち、そして「あは、あは」とあざ笑う者たちが、辱められ、卑しめられ、自らの恥に唖然とするようにと祈っている。
私は、私に苦しみをもたらす人に対して、具体的にどのような事をしてほしい、という祈りをしたことはない。理由は、祈りの中で必ず「では、どのようにして欲しいか」と訊かれるからである。そしてその後必ず、「死んで欲しいと思うか」ということばも聞こえるからである。私なりに感じるのは、「では、どのようにして欲しいか」ということばは神からだろうということ。しかし、「死んで欲しいと思うか」という言葉は悪魔からだろうということだ。そのような2つの言葉が聞こえる理由は、私に苦しみをもたらす人に対して、私の中に憎しみがあるからだろう。神は、その憎しみを愛に変えるため、悪魔の誘惑を許可されるのだと思うのだ。結果、そのような究極の結果を望んでいるわけではないという恐怖から、私に苦しみをもたらす人のための祝福の祈りへと導かれ、自らは悔い改め、「巖に立たせ、歩みを確かに」(2)させていただくのである。
祈り:
「あなたを慕い求める人たちがみな あなたにあって楽しみ 喜びますように。
あなたの救いを愛する人たちが 「主は大いなる方」と いつも言いますように。
私は苦しむ者 貧しい者です。主が私を顧みてくださいますように。」(16−17)
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