旧約聖書 第一列王記 13章
「人生におけるDetour,回り道の意味」
●語られたこと、学んだこと。
先月50歳になった。人生の半分以上を過ごしたことになる。数百年前の人の寿命を考えたらそろそろ天国へのお迎えが来ても良い時期だ。そんなオマケの人生、最近は我慢するのをやめて本音を神様に打ち明けることにしている。そんな訳で今までの50年の中で様々な回り道をして今に至る意味を今回の13章で考えさせられた。
9節に「主の言葉によって『パンを食べてはならない、水を飲んではならない、またもと来た道を通って帰ってはならない』と命じられているからです」とある。この章は”一人の神の人』がヤロブアムに神様の言葉をユダからベテルまで30Kmくらいの道のりを歩いて伝えに来る事から始まる。
ヤロブアムはこの神の人の言葉を聞いて悔い改めるチャンスを神様にいただくのだが結局破滅への道を歩む。そんな話の中で神の人が”同じ道を通って帰ってはならない”、と言う場面が強く印象に残った。イエス様がお生まれになった時に香油をプレゼントしてくれた占星術の博士、そしてマリアとヨセフ。同じ道を帰らず、違う道を通ってそれぞれの場所へと導かれる。
私の人生も回り道が多かったような気がする。そして人生の最後に集大成と思えるような回り道をしていたことに気付かされる。でも回り道をしなければ見えない事だったことに気付いた。人間の思惑で舗装されたような世界ではなく、神様のご計画によって作られた道のり。その道のりにたどり着くのには、荒野でさまよったイスラエルの民のように40年かかることもある。しかし、その先には必ず光がある。モーセは約束の地には入れなかったが、彼は神様との直接的な関係を築き恵を受け取っていたのだと思う。今、私に示されている回り道。最終到着地点までの道のりはどんな道なのか? マカプウライトハウストレイルのように舗装された道路か?それとも石がゴロゴロある急勾配の険しい道か?神様がいつも一緒だと思うと、そんな人生ハイキングも希望が湧いてくる。
しかし、神の人のように、人の言葉に惑わされて志なかばで打たれないようにせねば、、、神様の言葉が絶対優先、と思った。
●祈り
天の父なる神様。今日も生かされていることに感謝です。貴方は人が考えも及ばないことを見せてくださいます。不思議だと思えること、あり得ない事も起こしてくださいます。そんな毎日を私は幸せに生きています。今、気付かされた回り道。貴方がこれからどんな道を準備してくださっているのか楽しみに歩みます。ともに歩んでくださりありがとうございます。イエス様のお名前を通して、この小さな祈り、貴方の御前にお捧げいたします。アーメン。
Komentáře