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2021年1月17日ディボーション

旧約聖書:Ⅱ列王記4章 


 エリシャは、エリヤから預言者としてのバトンを受け取り、数々の奇跡を行う。奇跡の預言者とも言われている。

 私たちは、人間の科学では解明できない不思議なことが起こった時に、それを「奇跡」と呼ぶ。だから、千年前の人類が、現在の世界をみたら、それこそSF映画以上の奇跡の世界だと思うだろう。しかし、今の私たちは、画面上で相手の顔を見てやり取りしているのを奇跡とは感じないし、飛行機が空を飛んでいるのを見ても奇跡とは思わないだろう。

 奇跡とは、人間の側から見た表現であって、神にとっては奇跡とは言わない。それは神の御業なのだ。あえて奇跡と呼ぶのであれば、神の御業はすべて奇跡と言うことになる。私たちの現代科学で解明できる、できないにかかわらず、神の御業が奇跡なのだ。神は、エリシャを通して神の御業を現わしたのである。

 このような奇跡物語を読むときに心に留めておきたいことは、その神の御業にどのような意味があるのかということだ。この4章における、空の器に注がれた油、死んだ子供が生き返った、煮物から毒素が消えた、パンの奇跡、これからの奇跡を通して神は今の私に何を語っているのか、そこに込められた神からのメッセージを汲み取ることが大事なことだ。

 今朝のメッセージで語られた、4章1節から7節の空の器に油が注がれたという奇跡は、窮地に陥った未亡人と子供たちへの、主の憐みから始まっている。そして、器を私たち自身のこと、油を神の恵みと祝福と解釈し、主からのメッセージを受け取っている。このように比喩的に解釈するときには、強引な解釈にならないように注意が必要だが、主からのメッセージとして奇跡物語を読むことが出来る。

語られたこと

 神の奇跡(御業)は、今も日々、行われている。この大自然の営みも、寸分の狂いもない太陽と地球の距離、惑星の運行、宇宙自体が神の奇跡である。そして今日私たちが生かされていることも奇跡であるし、さらに私たちが、神の子供とされ、神と共に生きているのも、最大の奇跡であると思う。

 この神の奇跡(御業)に、もっともっと目が開かれ、神を讃える者でありたい。


祈り

 天の父なる神さま。どうぞ、あなたの奇跡に、あなたの御業に、目を開かせてくださって、主の栄光を見ることの出来る者としてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン

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