2022年1月13日 ディボーション

更新日:1月17日

詩篇第五巻 134篇


“May Our Whole Lives be an Act of Worship”


  詩篇134篇は、「都上りの歌」(123-134)の最後の詩篇である。繰り返すが、これらの詩篇が「都上りの歌」と呼ばれるのは、ヤハウェの礼拝者たちがエルサレムの神殿に向かう巡礼の途上でこれらの歌を歌ったと信じられているからである。

 多くの聖書学者は、この歌は最終目的地であるエルサレムの聖なる神殿で歌われたと考えている。この詩篇で非常に興味深いのは、礼拝者がヤハウェに祝福を求めるのではなく、礼拝者こそが主を祝福(バラク)するようにと呼びかけられている点である。

 この詩は外国語に訳すと非常に分かりにくいので、ヘブライ語の「バラク」という動詞をさらに調べる必要がある。旧約聖書では、"barak "はほとんどの場合、"bless"(祝福)と訳されている。しかし、旧約聖書では、"barak "は、「敬礼」「呪い」「冒涜」「祝福」「賞賛」「ひざまずく」「祝福する」「ひざまずかせる」など、8つの意味でも訳されている例がある。

 したがって、「bless」の理解に「salute」「praise」「Kneel down」を取り入れると、この詩篇の文脈で使われている「barak」という世界をよりよく理解することがでる。

 ひざまずき、主を祝福する行為は礼拝である。したがって、2節目にはこう書かれている。「聖所に向かって、あなたがたの手を上げ、主をほめたたえよ(祝福しなさい)」(2節)

 これが礼拝である。この短い詩篇の最後の3節は、「天地を造られた主が、シオンからあなたを祝福されますように」(3節)と書かれている。なぜなら、私たちが毎週日曜日に歌うように、すべての祝福は神から流れてくるからだ。

 

 旧約聖書では、エルサレム神殿が神を礼拝する人々にとっていかに中心的な存在であったかが語られている。実際、あらゆる国のユダヤ人が年に3回、エルサレムに巡礼の旅をして神殿で礼拝をしていた。

 その巡礼の旅とは、過越祭、五旬節の祭り、仮庵の祭の3つの祭りのことである。しかし、サマリア地方を通過したとき、イエスはサマリアの女に「女の人よ、わたしを信じなさい。この山でもなく、エルサレムでもないところで、あなたがたが父を礼拝する時が来ます。」(ヨハネ4:21, 聖書 新改訳2017)と言われたのである。私たちが知っているように、その時は来ており、キリストを信じるすべての人にとって現実のものとなったのです。

 今日、神の聖霊はすべての信者の中に生きておられます。私たちの体は、今や聖霊の神殿です(1コリント6:19)。聖霊は今や私たち全員の中に住んでおられるので、私たちはもはやエルサレムや他の場所に行く必要はないのです。この真理を理解すれば、私たちは礼拝のために膝をつかずにはいられなくなります。

 実は、私たちはしばしば聖霊の臨在を祈りますが、実際には聖霊が私たちを離れることはないのです。私たちはいつも神の臨在の中にいるのです。私たちは、このことを決して忘れることなく、人生を歩んでいきましょう。

 

 父なる神さま、今日の御言葉を感謝します。私たちの体は、聖霊の神殿であることを思い出させてくださって、ありがとうございます。本当に、私たちはいつもあなたの前にいることを思い出させてくれてありがとうございます。

 今日の御言葉は、あなたの前にいる時、私たちの応答はひざまずいてあなたを礼拝することだと教えてくれています。私たちはいつもあなたの前にいるので、主よ、私たちの生活の中で行うすべてのことをあなたに対する礼拝の行為にしてください。主よ、ありがとうございます。私たちは主よ、あなたを愛しています。In Jesus Name we pray, Amen.



“May Our Whole Lives be an Act of Worship”  Psalm 134

 

Psalm 134 is the final Psalm in the Songs of Ascents (123-134). Again, these Psalms are referred to as the “Songs of Ascents” because it is believed that worshippers of Yahweh sang these songs during pilgrimages on their way to the Holy Temple in Jerusalem. Many Bible scholars believe that this song was sung at the final destination, which is the Holy Temple in Jerusalem. What is very interesting in this Psalm is that instead of worshippers asking Yahweh for blessings, it is the worshippers that are called to bless (barak) the Lord. Because this verse is very confusing when translated into a foreign language, the Hebrew verb of “barak” needs to be further examined. Throughout the Old Testament, “barak” is almost always translated to “bless.” However, there are instances in the Old Testament when “barak” is also translated as “salute,” “curse,” “blaspheme,” “blessings,” “praised,” “Kneel down,” “congratulate,” “kneel,” “make to kneel,” and 8 more meanings. Therefore, If we incorporate “salute,” “praise,” and “Kneel down,” into our understanding of “bless,” we have a better understanding of the world “barak,” as used in the context of this Psalm. The actions of kneeling down and blessing the Lord is worship. Therefore, the second verse reads: “Lift up your hands to the holy place ad bless the Lord”(vv. 2). This is worship. The third and final verse of this short Psalm reads “May the Lord bless you from Zion, he who made heaven and earth” (vv. 3). This is a benediction that places the final focus back on God because, as we all sing every Sunday, it is God from whom all blessings flow.

 

In the Old Testament, we read a lot about how central the Temple in Jerusalem was to the worshippers of God. In fact, Jews from all nations made pilgrimage journeys to Jerusalem three times a year to worship at the Temple. The three pilgrimage festivals were the Passover, Pentecost, and Festival of Tabernacles. While passing through Samaria, however, Jesus told the Samaritan woman, “Woman, believe me, the hour is coming when neither on this mountain nor in Jerusalem will you worship the Father” (John 4:21). As we all know, that hour has come and became a reality for all believers in Christ. God’s Holy Spirit lives in all believers today. Our bodies are now the temple of the Holy Spirit (1 Corinthians 6:19). We no longer must travel to Jerusalem or any other place because the Holy Spirit now lives in all of us. Once we realize this truth, we cannot help but to fall on our knees in worship. The truth is, although we often pray for the presence of the Holy Spirit, in reality, He never leaves us. We are always in God’s presence. Let us never forget this as we go on in our lives.

 

Thank you, Father, for your Word today. Thank you for reminding us that our bodies are the Temple of the Holy Spirit. Thank You for reminding us that, indeed, we are always in Your presence. Your Word today teaches us that while in Your presence, our response is to fall on our knees and worship you. Because we are always in Your presence, Lord, let everything that we do in our lives be an act of worship towards You. Thank You Lord. We love you Lord. In Jesus Name we pray, Amen.

 

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