旧約聖書:1列王記19章
前章の18章では、エリヤ対450人のバアルの預言者の対決が記されている。そこで大勝利を収めたエリヤであったが、イゼベルに殺害予告をされ、彼は自分の命を守るために逃げていく。
1人荒野に入ったエリヤは、神に「いのちを取ってください」と訴える。この時のエリヤの状態は、現代で言えば燃え尽き症候群(バーンアウト)、あるいは鬱と言えるだろう。
火種が少しでも残っていたら、息を吹きかければまた燃え出すが、完全に灰になってしまったら、もう燃えることはできない。まさに燃え尽きてしまった状態に陥ってしまった。
このエリヤの「もう十分です、わたしの命を取ってください」という叫びは、私たち現代人の叫びでもあるだろう。エリヤは自死を覚悟して、荒野で眠りに入る。荒野で眠ることは死を意味している。
このエリヤに対して、神はみ使いを遣わし、彼に触れてくださった。まず触れてくださったのだ。この手の温もりから、神の優しさが伝わるようだ。昔から「手当」と言うように、手を触れることは、癒しをもたらす。ましてやみ使いの手である。
そして「起きて、食べなさい」と言われ、パンと水を備えてくださった。「いのちを取ってください」と願うエリヤに対しての、これが神の応えだ。つまり「生きよ」ということだ。この荒野において、起きること、食べることは、生きることを意味している。
神は、エリヤの状態を分析したり、診断したり、燃え尽きた原因を見つけ、解決策を提示することはしない。ただ触れて、パンと水を置いてくださったのだ。
そして、エリヤは、そのパンと水に力を得て、40日40夜歩いた。彼は目的をもって歩いたわけではない、ただ彷徨ったのだ。しかし着いた所は、神の山ホレブであった。彷徨っているように見えて、実は神が道となって、確かに「導いていたのだ」。私たちは、神の手の平の上にある。神が共にいてくださるのだ。
そして、ホレブ山で、神はエリヤに語り、新しい使命を与えるのだ。
語られたこと
私たちも、この厳しい世の現実の中で、燃え尽き、鬱になることがある。そんな時、神は、私たちに触れ、生きる力を与えてくださる。枕許に置かれたパンと水、それを受け取る者でありたい。「生きよ」と言われる神に、生きる道を選べる者でありたい。
祈り
天の父なる神さま。どうぞ、今も私の枕もとに置かれたあなたの恵みを、ただ受け取ることができますように。そして生きることを選べる者でありますように。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン
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