ヨブ記33章
『愛がなければ』
エリフは自らを神よりも義であるとしたヨブに怒りを燃やし、そしてヨブが、「私はきよく、背きがない。私は純潔であり、咎もない。それなのに、神は私を責める口実を見つけ、私を神の敵のように見なされる。神は私の足にかせをはめ、私の歩みをことごとく見張られる」(9〜11)と言ったことは正しくないと非難している。しかしヨブは、「私はきよく、背きがない、私は純潔であり、咎もない。」などと主張したことはない。ヨブは自分がきよくない者であり、背きや咎のある者であることを知っている(7:21、13:26、14:17)。
ヨブは確かに、神に対して不平を口にしていた。しかしそれは逆に神とヨブの関係がそれだけ近いからこそ、言えたことではないだろうか。事実ヨブは、神を否んだのであれば罰せられることを知っている(31:28)。
エリフによる神観は、とても分かりやすいし、共感できる。神からの応答がないと悲しんでいるヨブにエリフは、神は常に語っておられる、と言っている。確かに旧約時代、神は人を深い眠りに導き、夢の中で語る、ということをされて来た。また、困難や病といった苦難を通して語られるということは、新約時代の今もある。33章で語られるエリフの言い分は確かに一理ある。しかし、エリフの言い分が終わる37章以降において、ヨブの応答はなく、神も、エリフの名前に触れもしない。なぜだろう。
「たとえ私が人の異言や御使いの異言で話しても、愛がなければ、騒がしいどらや、うるさいシンバルと同じです。たとえ私が預言の賜物を持ち、あらゆる奥義とあらゆる知識に通じていても、たとえ山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、私は無に等しいのです。」(第一コリント13:1〜2)
エリフの知識は確かに素晴らしい。しかし、どんなに知識があっても、どんなに信仰が強くても、そこに愛がないならそれは無益である。32章でエリフは怒りを燃やしていた。エリフは、ヨブを慰めようと愛をもって意見したのではなく、他の3人の友人の言い分や、ヨブに対して怒りを噴出させているのだ。エリフの言い分は32章から37章に渡るが、そのエリフの言い分に対して、ヨブはもちろん、神さえも何ら反応しない。
愛のない言葉は、パウロがコリント人へ宛てた手紙のように、ヨブにとっても、神にとっても、騒がしいどらであり、うるさいシンバルにしか過ぎなかったのではないだろうか。
怒りに左右された心で語るとき、その言葉に神の愛は存在しない。私がまだ未信者であった頃、言うことを聞かない息子に対して感情的になって叱ることがよくあった。叱られて、泣き疲れて眠る息子の頬には涙の跡が残っていて、寝ている息子に泣きながら「ごめんね」とあやまった。息子を愛しているのに、言葉で息子を傷つけてしまう自分がいやでたまらなかった。その息子も今は成人して、立派に社会に貢献する大人になった。間違いだらけの子育てであったと思うのに、息子は私の愛のない言葉より、愛のある言葉を信じて「ママは最高のママだよ」と言ってくれる。神から来る愛の言葉は、すべてを包み込み、喜びに満ち溢れさせてくれる。
「愛する者たち。私たちは互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛がある者はみな神から生まれ、神を知っています。愛のない者は神を知りません。神は愛だからです」(ヨハネ第一4:7〜8)
祈り:
イエス様。愛のない言葉を語ることのないよう、私の口を制してください。感情に左右されないよう、私の心を制してください。あなたの愛で、ただ愛し合うことができますように。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
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