2021年7月12日 ディボーション

ヨブ記19章


『嘘と真実』


 友人たちの種々の侮辱にも屈せず、ヨブはこのわざわいを、自らの過ちによるのではないと反論し続けている。

「今知れ。神が私を不当に扱い、ご自分の網で私を取り囲まれたことを。」(6節)。

 18章でも網の表現が出ていた。しかしその網は、自らが仕掛ける網のことではないだろうかと思った。私たちが自らの網にかかるとき、身動きが取れなくなって、出口を見つけるどころか、途方に暮れ、最後にはあきらめを強いられる。しかし、ヨブが取り囲まれているような神による網なら、たとえ同じように身動きは取れず、出口が見えなくとも、必ず最後は祝福に導かれる、という平安をいただけるのではないだろうか。ヨブの信仰に倣いたい。ヨブはすべてを失い、これ以上ないほどの不幸に見舞われた。しかし彼は、必ず神によって贖われ、その目で神を仰ぎ見る日が来ることを知っているのだ。


 「私は知っている。私を贖う方は生きておられ、ついには、土のちりの上に立たれることを。私の皮がこのように剥ぎ取られた後に、私は私の肉から神を見る。この方を私は自分自身で見る。私自身の目がこの方を見る。ほかの者ではない。私の思いは胸の内で絶え入るばかりだ。」(25〜27節)


 これまでのヨブ記を何度も読み返すうち、信仰に固く立つには、嘘と真実を見分ける力が必要なのではないか、と気付かされる。ヨブの友人たちはみな、ヨブと同じように知識を持った人たちである。しかし彼らの言っていることは、因果応報としてヨブを責め、原因を追求しているに過ぎない。罪があるから災いが起こる。悪いことをしたから罰があたる。これらはサタンによる嘘である。ヨブの友人たちは、サタンの手先となっていることに気づいていない。だからヨブは29節で「あなたがたは剣を恐れよ。憤りが剣による刑罰をもたらすからだ。こうして、あなたがたはさばきがあることを知るようになる。」と警告している。

 私たちの罪はすべて、過去、現在、未来に渡って、イエスの十字架の死によって贖われ、赦されている。唯一の神はヨブが生きた族長時代においても、私たちが生きる恵みの時代においても、贖い主である。信仰に生きても試練や苦難はある。しかしその先に、必ず祝福が待っている、ということを私たちもヨブのように、知っているのである。


私たちは主のことばによって、あなたがたに伝えます。生きている私たちは、主の来臨まで残っているなら、眠った人たちより先になることは決してありません。すなわち、号令と御使いのかしらの声と神のラッパの響きとともに、主ご自身が天から下って来られます。そしてまず、キリストにある死者がよみがえり、それから生き残っている私たちが、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられ、空中で主と会うのです。こうして私たちは、いつまでも主とともにいることになります。」(テサロニケ人への手紙第一4:15〜17)


祈り:

 ヨブの信仰を通して、嘘と真実を見分ける知恵が与えられましたことを感謝します。すべての罪が、イエス様の十字架の死によって贖われ、赦されたこと、赦されていること、そして赦され続けること、ありがとうございます。この世で経験する試練や苦難に負けそうになる自分がいます。しかしその先には、神さまの約束の成就に伴って、私自身もイエス様のように復活させていただき、栄光のからだをいただいて、イエス様とともに永遠の御国で生かされる恵みに与っていますことを、ありがとうございます。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

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