士師記18章
「そのころ、イスラエルには王がいなかった。(1節)
このことばは、17章6節にも記されている。「そのころ、イスラエルには王がなく、それぞれが自分の目に良いと見えることを行っていた。」
18章のダン族の行動は、蛮行と言ってよいものだ。ミカの家から鋳造とエポデとティラフィムを分捕り、レビ人の若者を奪い、平穏に暮らしていた民を虐殺し、土地を奪ったのだ。やりたい放題に見える。
しかし、ダン族には、ダン族の言い分があり、正義があったのだろう。それが「自分の目に良いと見えることを行っていた」ということである。
王がいないという事の意味は、法律がないということだ。法律がないということは、秩序がないということになる。
士師記は、まさに無秩序の世界、「自分の目に良いと見えることを行っていた」という世界である。「自分の目に良いこと」は、他者にとっても「良いこと」とは限らない。「良いこと=正義」が相対化されるとき、それぞれが「自分の正義」に基づいて行動し始める。すると、そこには衝突と争いしか起こらないだろう。いくら、第三者がそれは蛮行だと訴えても、当人が「これは自分にとって良いことだ」と言えば、それまでだ。
王がいなということは、無秩序と争いを引き起こす。
語られたこと
現代においても、王の王である主に従うことを抜きにしてしまうと、みんなが「自分にとって良いこと」を行い始め、それぞれの正義が主張されて、衝突と争いが引き起こされてしまう。まさに現代は、この士師記の時代と変わらないのではないだろう。
私たちは、自分にとっての正義ではなく、神の正義の中に生きる者でありたい、自分の目にとって良いことではなく、神の目にとって良いことを行う者でありたいと思わされた。
祈り
天の父よ。私が、自分にとっての正義ではなく、主よ、あなたの正義に生きる者とならせてください。そして、自分の目にとってではなく、神の目に良いことを行えるように導いてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン
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