士師記11章「私は、その人を全焼のささげ物として献げます。(31節)
なんともやるせない出来事である。士師としてエフタは、イスラエルに勝利をもたらした。しかしエフタは、アンモン人に勝利したら、最初に自分を出迎えた者を生贄として捧げますと誓ってしまったのだ。
そして、なんと自分のたった一人の娘が、最初に彼を迎えに出て来たのだ。エフタは誓った通りに、一人娘を生贄として捧げてしまったのである。しかも、娘もそれに従順に従ったのであった。
そもそも、人間を生贄にするというのは、真の神の教えでなく、異教の教えである。人間の生贄を捧げる理由などないのだ。何を勘違いしたのか、調子に乗ったのか、エフタはとんでもない事を主に誓ってしまったのだ。主は、そのような人間の生贄など喜ばれないのだ。これは、まったくエフタの独りよがりである。
私たちは、主が喜ばれる生贄とは何か? を知る必要がある。熱心であれば、犠牲が伴えば、純粋な気持ちであれば、やる気があれば...、何でも捧げていいわけではない。何を捧げているのかが重要なことだ。
主に喜ばれる生贄は、「見よ、聞き従うことは、生贄にまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる」(1サムエル15:22) 「神への生贄は、砕かれた霊。打たれ、砕かれた心。神よ。あなたはそれを蔑まれません。」(詩篇51:17)と記されている。
語られたこと
自分は、献身している、主に捧げていると思っている。しかし、意外と神に喜ばれないものを、自分の独りよがりで捧げたつもりになっていることがないだろうか。
自分は「何を」捧げているのかをもう一度考えさせられた。そうすると、結局、自分が捧げることが出来るものとしては、「砕かれた霊、打たれ、砕かれた心」しかないのではないかと思える。ヘンリー・ナーウェンは、「自分には、自分の弱さ以外、神に捧げるものない」ということを言われた。その通りだと思わされた。
祈り 天の父よ。本当にあなたが喜ばれる生贄とは、何なのかを知り、捧げることができますように。父の心をもっともっと知ることが出来ますように、私を主の御許に近づけてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン 天の父よ。本当にあなたが喜ばれる生贄とは、何なのかを知り、捧げることができますように。父の心をもっともっと知ることが出来ますように、私を主の御許に近づけてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン
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