創世記15章より「神と人との間の契約」
主はアブラムに言われた。「わたしのところに、三歳の雄牛と、三歳の雄やぎ
と、三歳の雄羊と、山鳩と、鳩のひなを持って来なさい」(9節)。
今日の私たちにとっては、これから何が始まるのかと思わせる光景である。
アブラムはかつて、「わたしは、あなたの子孫にこの地を与える」という、神からの約束を受けた。しかし、彼の立たされている現状を見る限り、アブラムは神の約束に信頼を置くことに、困難を覚えずにはいられなかったのである。
それゆえに、アブラムは言った。「神、主よ。わたしがそれを所有することが、何によって分かるでしょうか」(8節)。そんなアブラムに、かつての約束に信頼をおいてもらうため、神はいま、このことをなさろうとしているのである。
アブラムは、用意した動物を真っ二つに切り裂いた(10節)。これは旧約聖書の物語の舞台である古代中近東の世界において、個人や国家同士で契約を結ぶときに行われていた方法である。
契約を結ぶ二者のうち、立場の強い側の者は「主」と呼ばれ、軍事的な協力と保護を弱い立場の者に約束した。弱い立場の者は「しもべ」と呼ばれ、捧げものと忠誠心を強い立場の者に約束した。そして、弱い立場の者はこの儀式の中で、真っ二つに裂かれた動物の間を通りながら、「もしわたしが契約に忠実を示さなかった場合、この動物のように身を裂かれることを承知します」と誓約をしたのである。
しかし、この聖書の場面で、実際に真っ二つに切り裂かれた動物の間を通ったのは、誰であったか?聖書にはこう書かれている。「日が沈んで暗くなったとき、見よ、煙の立つかまどと、燃えているたいまつが切り裂かれた物の間を通り過ぎた」(17節)。
切り裂かれた動物の間を通ったのは、普通に考えれば、神より弱い立場にあると考えられるアブラムではなかったのだ。代わりに、切り裂かれた動物の間を通ったのは、「煙の立つかまどと、燃えているたいまつ」という姿で、アブラムの前に現れた神だったのである。神はこのとき、いったいどんなご意志を持って、このことをされたのだろうか。そして、この出来事を見ていたアブラムは、いったいどんな気持ちで、これを見ていたのだろうか。
神はアブラムと契約を結ばれた。それからのち、旧約聖書の物語の中で神は、アブラムの子孫であるイスラエルの民に対しても、この契約に忠実であり続けられ
た。しかし一方で、イスラエルの民は、幾度となく神に信頼することをせず、契約関係にあるはずの神に対して、不忠実を示し続けた。
この契約に対する不忠実の償いを払われたのは、誰だったか?イスラエルの民ではない。神の一人子であるイエス・キリストが、人の代わりに十字架におかかりになられて、身を裂かれたのである。神は、このイエス・キリストを救い主であると告白する信仰に生きる者に、罪の赦しと永遠の命を与える「新しい契約」を結ばれるのである。それが、新約聖書の物語である。
神は人と契約を結ばれた。私たちの「主」となられた神は、罪による滅びと死から責任を持って、「しもべ」である私たちを守ってくださる。神と契約関係に生きる私たちに求められていることは、私たちの主となられた神に、心からの信仰と忠実を表すことである。
主なる神以上に何かに頼ることをせず、この方を心から愛して、この方のために生きる人生を送ることである。もし仮に、このような相互関係が神と人との間に存在せず、ただ一方的に人が願いを伝えているとするならば、この世に蔓延する「ご利益信仰」と変わらなくなってしまう。
神との契約関係に生きることが、私たちの信仰の歩みであることを、忘れずに生きていきたい。そして、この主なる神との契約関係の中にあって、私たちに約束されている驚くべき祝福と恵みを、体験させていただく人生を送らせていただきたい。
祈り
天の父なる神さま。私たち一人ひとりが、あなたの大いなる御心の中で、今ある救いに導かれて、今日も生かされていることを感謝します。神さまとの契約の関係の中にある私たちが、また教会の群れが、どんな時も、あなたからの守りと祝福が約束されていることを感謝します。私たちもあなたに信頼し、心からあなたを愛して、歩んでいきたいと願います。私たちの救い主であるイエス・キリストの御名に
よって祈ります。アーメン。
Yuma Nakagawa
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