旧約聖書:1サムエル記25章
「荒野のレッスン」
これは、ダビデがサウルの追手から逃げている最中に起こった出来事である。ダビデの荒野における逃避行は、間違いなく彼の人生における最大の危機であろう。しかし同時に、この期間を通してダビデは神の器として整えられていく。ここに起こってくる出来事は、すべて神からのレッスンだと言うことができる。
モーセも12使徒もパウロも、神の働き人として実際に立っていく前に、このような整えられる時を通っている。確かに神から油を注がれたのは(任命を受けたのは)、ダビデが少年の時であった。しかし、彼が実際に王としての働きを始めるのは何年も先のことになる。少年時代の油注ぎは、王になるためのレッスンが始まったことを意味している。
サウルからの逃避行の期間を、そのような視点から見ていくときに、24章における出来事の意味も見えてくる。神に油注がれた者に手をくださないという判断は、それだけ神の油注ぎの重要性を理解しているということになる。もしそれを軽んじるなら、それは自分に対する油注ぎも軽んじることになる。ダビデはここで、神からの油注ぎという“神の主権”を学んでいるのだ。
そして25章においては、自分で復讐することをしないということを学んでいる。ダビデはアビガイルの助言に対して「あなたの判断がほめたたえられるように、また、あなたが、ほめたたえられるように。あなたは今日、私が人の血を流しに行き、私自身の手で復讐しようとするのを止めさせた。」(33)
サウルに対しても、ナバルに対しても、ダビデが学んでいるのは、“神の主権”である。この神の主権に対して、私たちの側からの応答は、神の主権を侵さないということだ。
現代の言葉で表現すると“神と人との境界線”ということになる。神の領域と人間の領域には明確は境界線がある。それを破ろうとするときに、私たちの歩みに混乱が生じてくる。
裁きは神の主権であり、復讐も神の主権にある。25章では、アビガイルの知恵ある助言によって、ダビデは境界線を超えずに踏みとどまることが出来たということだ。
語られたこと
神の領域を侵さない、自分の分をわきまえるということが、いかに大切なことなのかを痛感した。周囲の声や、自分の感情の衝動によって、その境界線を破ってしまうことがないように、特に、人の助言に耳を傾ける姿勢が大切だということを学んだ。
祈り
天の父よ。あなたの主権を感謝します。あなたは、公正と公義をもって事を裁かれる方です。私が主権を侵して、裁き主の立場に身を置くことがありませんように、自分の与えられた分をわきまえることができますように、人からの助言に耳を傾ける者でありますように、聖霊が助け導いてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン
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