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2020年11月4日ディボーション

サムエル記 第一  24章

「主に油注がれた者を手にかけることはしない。」


語られたこと:

 ダビデは、サウルが自分の手の内にあり、打とうと思えばできたはずなのにそれをしなかったのは、サウルが神に油注がれた者だったから。裁くのは神ご自身であることを知っていたから。他者の意見を聞く耳ももたずサウルを打とうとしなかったのは、常に他者よりも主を自分の前において、主に従順であったからだと示された。主への全き信頼感を持っているダビデはすべてを主に委ねていたのだろうということが語られた。感動せずにはおれない。ダビデの神を崇拝する姿が目にやきついた。

 そしてサウルは、ダビデの愛のある行動に対して深く反省し、自分がダビデにやって来た事に対して後悔し声をあげて泣いた。しかし、これでやっと改心したかと思うと、まだまだサウルはダビデの追跡をやめない。その姿は、まさに神に背を向けて、神から見放されたサウルの生き様がそこにあった。ダビデとサウルの神への従順さ、二人の違いがここに示された。

 自分の命を狙うサウルを打とうとしないダビデは、「半沢直樹」の倍返しではないけれど、有利な立場にあってもサウルを赦せるということは、それはやはり神様の介入がなければできないことである。神様もダビデの行動をじっと見守っていて、次から次へとサウルをとおして難問をあたえられる。それでも、ダビデは神様を優先する。神への信頼は勝利をもたらす。

 私達は優先順番が逆になることが常である。他人様が先になって神様はその次になってくる。それが私達の肉の世界である。それでも、少しずつ神様を優先していける者になれたらなあと、いや、なりたいと思う。


祈り

天のお父様、あなたの御名をほめたたえます。

今日の聖書のみことばを私に語って下さって心から感謝します。私達は肉の人間で、やられたらやり返すというのが世の常です。でも、私達はイエス様の十字架によって罪が赦されて、神の子として下さったから、今度は私達がやられたら、やり返すのではなくてその人の為に心から祈れる人になれますように助けて導いて下さい。感謝して主イエスキリストの御名によって祈ります。 

アーメン

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