サムエル記 第二 6章
「神さまの助手席で賛美できますように」
教えられたこと
エルサレムを全イスラエルの中心に据えたダビデ。そしていよいよ、首都イスラエルに神さまを迎えるため、『神の箱』を運ぶことにした。
神の箱(主の箱、あかしの箱、契約の箱)は、今年の2月にデボーションをしていた出エジプトや、5月に学んだ民数記などにも詳しく描かれていた。純金の荘厳な、さぞ重いであろう箱を担ぐ様子を想像したりしていた。
ところがこの6章では、人は担がない。
6:3「彼らは、神の箱を新しい荷車に乗せて、それを丘の上にあるアビナダブの家から移した。アビナダブの子、ウザとアフヨがその新しい荷車を御した。」
そうか、ダビデの時代には新車に乗せて運ぶようになったのか……と思った途端に、事態は急展開。荷車を引いていた牛がよろめいて、神の箱が落ちそうになるのを案じたウザは、とっさに箱を抑えて落下を防いだ。
ウザは機転をきかせたつもりだったろう。ところが!
6:7「すると、主の怒りがウザに向かって燃え上がり、神はその過ちのために、彼をその場で打たれた。彼はそこで、神の箱の傍で死んだ。」
神さまは喜ぶどころか、烈火のごとく怒ってウザを殺してしまった。なぜ???
聖書の注釈を見ると、民数記の4:15が示されている。「人が聖なるものに触れると死ぬ」と、主は告げられていたのだ。
ウザのように私たちは、恵みであれ怒りであれ、神さまのみことばに疎い。すぐ忘れてしまう。みことば通りに受け取らず、命に従わず、新車に乗せようと、自分の善意(?)ある解釈で行動しがちだ。
そして荷車を御す=運転手としてハンドリングしてしまう。真のドライバーは神さまなのにもかかわらず。
事件を見ていたダビデは猛省し、神さまの怒りが静まるまでひれ伏して待った。ようやく三カ月後、主の箱は人の肩に担がれて首都エルサレムに到着した。
賛美の人、指揮者ダビデは服がはだけるのも気にせずに跳ね回り、喜び躍り、人々と歓声をあげた。
そのようすを見下ろしていたのがサウルの娘、ミカルだった。ミカルはダビデをみっともないと口汚く罵った。それは主の栄光をあがめる、礼拝を否定することでもあった。
だからだろうか、サムエル記の記者はミカルを“ダビデの妻ミカル”とは書かず、“サウルの娘”とした。主の祝福を受けることができなかった、父と娘である。
祈り
天のお父さま、6章のみことばをありがとうございます。どうか聴き漏らすことなく、受け取れる人に育ててください。勝手な解釈をせず、全身全霊でみことばを聴き、血肉にできますよう消化吸収を助けてください。
そしてみことばを実践できますよう、整えてください。
「主を喜び祝うことこそ、私たちの力の源です。」(ネヘミヤ8:10)
イエスさまのお名前で感謝して祈ります。アーメン
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