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2020年11月19日ディボーション

旧約聖書:2サムエル記4章 

「主は、生きておられる」


 「主は、生きておられる。主は、私のたましいを、あらゆる苦難から贖い出してくださった。」(9)

 サウルの死後は、息子のイシュ・ボシェテが11部族の王位を継承していた。(ダビデは、ユダ族の王であった。)しかし、サウルの家はますます弱体化し、頼みの将軍アブネルも殺されてしまった。そこで、略奪隊長であったレカブとバアナはイシュ・ボシェテを見限りダビデ側に寝返る。この二人は、イシュ・ボシェテを謀殺し、その首をもってダビデに取り入ろうとしたのである。

 ダビデは、以前にもサウルにとどめを刺したと偽った者を罰している。今回も、同じ構図だ。二人の家来はダビデに喜ばれると思っていたのだろう。しかし、逆にダビデの怒りをかつて殺されてしまった。

 このように、ダビデの一連の動きを見ていくと、ダビデの考え方と、その他の人々との考え方が、まったく違うことが分かる。

 人々はゴリアテには勝てないと怯えていたが、ダビデは勇敢に立ち向かった。家来たちは、ダビデに今がチャンスとサウルを打ち殺そうと進言したが、ダビデは踏みとどまった。サウルを殺したと偽った者を罰した。

 それらの人々にとっては当たり前の考え方だと思う。しかし、ダビデはまったく違う考え方をしているのだ。その違いとは、考える“前提”の違いから生じる。

 もし、神を抜きにして考えるなら、それらの人々の考え方が正しいとされるのだろう。しかしダビデがその他の人々と決定的に違うのは、ダビデにとって「主は、生きておられる」ということなのだ。「主は、生きておられる」これがすべての大前提にあるのだ。

 神有りとする生き方と、神無しとする生き方とでは、考え方も、判断も、選択も、まったく違ったものになっていく。

語られたこと 

 自分の歩みにおいても、主がおられる道と、おられない道では、まったく違った道となる。考えも、判断も、選択も、まったく違ったものになるだろう。どんな時でも、どんな事でも、「主は、生きておられる」という事を前提に生きていきたいと思わされた。

祈り

 天の父よ。私たちが、「主は、生きておられる」という事を知っている者として考え、判断し、選ぶことができますように、日々の歩みを聖霊が助け導いてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン

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