「イエスさまは寝ない?! どんだけ祈るのか?!」
マルコ1:32~39
●喜んだこと
牧人先生のディボーションクラス“神を知る生活”(毎週金曜9:00am~)がいよいよ始まった。牧人先生は、
「私たちはこの世と調子を合わせやすい者です。だから私たちは神さまのみことばが聴こえるよう、常にチューニングするんですね。デボーションは礼拝でもありますね、できれば24時間365日、デボーションとともにありたいです。信仰者の私にとってデボーションは、すべての働きと営みの中核です」
なんてさらりと賜った。すうっと筋が整った気がした。
毎日聖書を読むのがデボーションではないんだ。聖書を通して、神さまのみ顔の方角に向いていられるよう、周波数のヘルツを、み声にぴったり合わせるのだ。そうして受け取ったみ声、グッドニュースを実践するのだ。ブルートゥース任せじゃない、神さまと私の感度を良好にする、極めてアナログな調整だ。
私はいちじくの下のクールなナタダエルを思った。
牧人先生はマルコ1:32~39で、デボーションの黙想をしようと云った。
35節に「暗いうちに起きて寂しいところに出かけて行き、そこで祈っておられた」とある。マタイ(14:23)には、「イエスは祈るために一人で山に登られた。夕方になっても一人でそこにおられた。」とある。なんと長い祈り、どんだけ祈るのか!
マタイでは「人の子には枕するところもありません。」(8:20)ともある。
イエスさまにとって、祈りは眠りに勝る安息と平安なんだろうな。祈りは喜びに満ちたエネルギーチャージなのかもしれないな。
牧人先生のデボーション箇所、マルコ1:38には「私はそこでも福音を伝えよう。そのために、わたしは出て来たのだから。」とある。いいなあ。
イエスさまは、食べるより寝るより、命を落とすより、福音を伝えずにはいられなかった。み声が伝えてくれる福音は愛だから。愛しか私たちを救ってくれないから。
●祈り
イエスさま、あなたの公生涯のすべては、福音と祈りだけだったことを牧人先生の会で、今さらながらに知り、感激しました。ありがとうございます、すごく嬉しくて、小躍りしたいほどです! あなたを喜びます、もっと賛美したいです。
私はデボーションの後の黙想のつもりが、昼寝になってしまうことがありますが、コロナの不要不急のステイホームのおかげで、安息という感覚を知りました。安息のおかげでみ声の喜びが少し増えました。また明日も、わくわく出待ちチューニングをさせていただきます! あなたに感謝してアーメン!
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