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Tropical Leaves

HCCディボーションブログ

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『幸いなこと』


 「主の教えを喜びとし、昼も夜もその教えを口ずさむ」そのひとは幸いだ、その人は、ほとりに植えられた木のように、葉は枯れず、何をしても栄えるとあるのですが、肝心な聖句は「時が来ると」という聖句だと思うのです。水が豊かで、光注ぐほとりに植えられた木も、すぐには成長するわけではなく、充分な時がくると、実をむすぶように、私たちもいっぺんに、栄えるのではなく、神の時が来ることを待ち望み、成長する者となることが幸いである。そのためには主のみことばを昼も夜も口ずさむ訓練が必要とあります。


 天草で出会って感銘を受けたバプテストの牧師先生は、このことばを実行されていた。例えば、天草から熊本市内に車で移動したりするには、2時間近くかかるのですが、彼が運転中、赤信号停車する度に、運転席の横に開かれている聖書箇所を読まれているのです。昼も夜もその教えを口ずさむことを、自ら実践されているのでした。


 しかし、彼は、みことばを覚える、知識にするだけでは実がならないと強調します。私たちはみことばを食べること、みことばを咀嚼して自分の身体の栄養とすることが求められているのです。もしもみことばを知識として知るだけでしたら、私たちよりも、サタンのほうがずっとくわしいことは明白です。サタンは、このみことばの真意を曲げて私たちに迫ってきます。


 さて、ヨハネの福音書第一章「初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。」と御子イエスを表しています。そして主イエスは言われました。そしてヨハネは6章53節で「まことに、まことに、あなたがたに言います。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたがたのうちにいのちはありません。」そうしておおくの弟子たちが去って行ったともあります。


 主イエスはことばなのです。主のことばを食べて自分の身体の栄養にする、みことばを覚えるだけではなく、食べなさいと主は語ってくださいました。そうすれば、神の時がくれば、必ず栄える、幸せなのだと詩篇1篇で表されています。


 これから詩篇のデボーションが始まりますが、この最初の1篇が詩篇の全体を示しているとも言えますね。聖書のほとんどは、神から私たちへの語りかけの物語ですが、この詩篇では、人間である私たちから神に問いかけ、時には語り、また感謝する。心の旅が始まります。


祈り

詩篇には、人の感情が滲み出てくるので、論理的に理解したいと願う自分としては、どちらかと言うと苦手な聖書箇所なのですが、どうか導きがありますように、デボーションを通じて、心が広げられますように。アーメン 

文:森 宗孝


 

『祈り』


 この章では、祈りについて考えさせられました。2節に「たゆみなく祈りなさい。感謝をもって祈りつつ、目を覚ましていなさい。」口語訳では「目を覚まして感謝を込め、ひたすら祈りなさい」何を祈るのか、聖書のみことばが自分の心を開いて、キリストの福音を語ることができるように、祈りなさいとあります。


 ここを読んで、いかに自分の祈りがいかに拙いいのりであるか、身を竦まされる思いです。なぜなら自分の祈りは、家族のこと、健康のこと、教会のメンバーや友人のための祈りで終わってしまい、主イエスのお語りになった、神の奥義を語れるようにという祈りにはほど遠い祈りだからです。


 このパウロの獄中書簡と比べて、最近学んだもう一つの獄中書簡があります。ドイツ神学者ボンハッファー、彼はヒットラーの暗殺未遂、反逆罪で処刑された2千人のうちの一人の牧師で、彼も獄中書簡を書いているのですが、彼の祈りに対する言葉は、「私たちは神に、私たちの苦しみを叫び訴える権利を持っている。しかし、最も深いところでは、ただ神に委ねる祈りと導かれる」


 彼にとって祈りは、私の祈りのように生ぬるいものではなく、命を賭けた行為であると考えていた。しかし同時に大いに悩んでいた。自分達夫婦はドイツのボンハッファーの80周年記念ツアーに参加して学んできたことは、この牧師は最後まで自分のすべき道を迷いに迷っていた、つまりヒットラーといえども人を殺めようとすることは、神の裁きに合う、しかし、もしもユダヤ人虐殺を黙って、傍観者としていたら、これも神の裁きに会う。どうしたら良いのか祈って、祈って、祈り通したことを学んだ。


 祈りは、神に委ねる祈りと導かれる、パウロもボンハッファーに、対してきっと、そうだ、そうだと言ったにちがいない。


祈り

十字架の上で、苦しみの中でも私たちのために祈ってくださった主イエスを、思い起こして、たゆみなく、感謝を持って毎日祈り、神のみこころを伝える道具となれますように! アーメン 

文:森 宗孝


 

「何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心から行いなさい。」23節


 このみことばにであうまでは、何度も対人関係でつまずいたことがあった。この人のために一生懸命にやっているのに何の感謝もなくその人の口からでてくるのは、ただ不満の言葉だけだった。いくらやってもその人を満足させることはできなかった。今思えば、私が何かをする時の相手が間違っていたのである。その人だけのためではなかったのである。自分のためでもあったのです。最初から間違っていたことをしていたのである。23節のみことばにであってからは、実に目から鱗が落ちる思いでした。人に対してではなく、まず優先されるべきお方は、ただ主だけです。私たちが、何かをするときに是非知っておきたいみことばではないでしょうか。


 そして、パウロはさらに大切なことを語っています。


「キリストのことばが、あなたがたのうちに豊かに住むようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、忠告し合い、詩と賛美と霊の歌により、感謝をもって心から神に向かって歌いなさい。」16節


「ことばであれ行いであれ、何かをするときには、主イエスによって父なる神に感謝し、すべてを主イエスの名において行いなさい。」17節


 この世で生きていくにはすべてがそう簡単にいかないことはよく知っています。大変なときにこのようなみことばが口からでてくるだろうかと思うところですが、私たちには、主イエス・キリストによって平安があたえられています。その平安があるから神への感謝と喜びがわいてきます。又、感謝をもって心から神に向かって歌うことができるのです。



 ハレルヤ!

天の父なる神様。日ごろの人との交わりのなかで、まだまだ人を優先することが多々にあります。どうか、パウロがコロサイの人々に語ったように私たちも人に何かをするときには、絶えず主に対してするように、心から行うことができますようにしてください。そして、イエスによって父なる神に感謝し、すべてを主イエスの名においておこなうことができるように導いてください。感謝して主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン


 
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