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Tropical Leaves

HCCディボーションブログ

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『共にいて下さる主』



 何処の世にも遺産相続、家督継承などの問題があるものだ。詩篇が書かれた時代背景は、ダビデ王が自分の息子に命を狙われるという大変な苦難の

中で書かれたという。日本を含むアジアの戦国時代や古代エジプトの歴史に似ている。権力者は政略結婚、血筋を守るために異母兄妹での婚姻、何人もの妻を娶り、異母兄弟がたくさんいる。諍いが起こるのは目に見えている。


 このような苦難の中にあっても神を信頼し、話しかけ、問いかけ、祈り続けるダビデの姿勢に感銘を受ける。


1節「私が呼ぶとき 答えてください。私の義なる神。追い詰められたとき、あなたは私を解き放ってくださいました。私をあわれみ私の祈りを聞いてください。」

 この「解き放ってくださいました」で、この時が初めてではないことがわかる。神様は私をも何度も救って下さったので感謝して同感する。


2節「2人の子たちよ いつまで私の栄光を辱め空しいものを愛し偽りを慕い求めるのか。セラ

 この「セラ」という言葉は詩篇に71回も登場する。意味は不明だが、音楽符号と考えられている。ヘブル語で、休止符(黙想、回想の時)の意味や、ストーリーのまたはミュージックのトーンが変わる時に使われるという。


3節「知れ。主はご自分の聖徒を特別に扱われるのだ。私が呼ぶとき 主は聞いてくださる。」

 私も時々心の中で叫び神様に呼びかける。応答が感じられない時が多くあり、不安に襲われるの。そして祈る。「私はあなたと共にいる」が頭に浮かんできて平安を得る。この繰り返しが多い。

「見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」(マタイ28:20 JDB)

これは聖書に書かれているので真実である。


天の父なる神様

私たち人間では感覚の限りがあるのか、あなたが共にいると感じられない時があります。あなたがいつも共にいることは聖書の約束なので感謝です。そして、私たちクリスチャンは祈ることができる。御子イエス・キリストの名により感謝を込めて、それぞれに平安がありますように祈ります。アーメン

文: マッカーター政子


 

 詩編3編は、ダビデ王が自分の息子のアブサロムから逃がれたときに作ったものです。そのような困難の中でもダビデは神に賛歌を歌うことができたのです。


 1節2節を読むとヨブが友人たちから蔑まされたことが思い出されます。ダビデは、自分の敵が、又、自分に向かい立つ者が多くいることを言っています。そして、「彼には神の救いがない」と今の自分の現状を主に訴えています。そして、4、5、6節ではダビデの神への全き信頼を述べています。 


「私は声をあげて主を呼び求める。すると 主はその聖なる山から私に答えてくださる。」4節


「私は身を横たえて眠り また目を覚ます。主が私を支えてくださるから。」5節


「私は幾万の民をも恐れない。彼らが私を取り囲もうとも。」6節


 普通ならいつ自分の命がねらわれるのかと不安で眠れるはずがありません。しかし、ダビデはこのような時にも主に委ねて祈ったのです。彼の信仰が、神への賛歌を歌うことができ、眠りにつくことができたのです。


 私たちも、自分達に何か大きなイベントを任された日の前日はなかなか眠れないことが多々あると思います。このような時にダビデのように、今の自分の置かれている状況(不安な気持ち)を神に素直に言って、そして、神は必ずこの不安な気持ちに答えてくださるという神への信頼をもって祈っていくことだと思います。


 ある牧師が語っておられるのが心に留まりました。

「信じるということは、闇の中に身をゆだねて眠りにつくことです。これが、神を信じるダビデの信仰でした。」つまり、闇の中に身をゆだねるということは、闇の中に身をゆだねた後は、神さまの出番だということをしっかりと信頼していくということです。



 主の御名を崇めます。

愛する天の父なる神さま。今日も私たちのために執り成して下さって心から感謝します。自分たちが困難の中にいる時に、あなたを見上げることができなることがあります。このようなときにどうぞ私たちの心があなたを見上げて祈っていくことができますように導いてください。感謝して主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン


 

「なぜ、国々は騒ぎ立ち もろもろの国民は空しいことを企むのか。なぜ 地の王たちは立ち構え 君主たちは相ともに集まるのか。主と主に油注がれた者に対して。」(1,2)


 この1節と2節は、メシヤ預言です。主に油注がれた者とは、来たるべきメシヤのことを指し示しています。

 特にこの箇所は、使徒の働き4章25節~に引用されています。約束の聖霊が降り、人々が大騒ぎしている中で、ペテロが立ち上がってメッセージを語りました。その中で、この箇所は、イエスの事を特に十字架のことを預言しているのだということを明らかにしています。

 

 もしイエスが目に見えるお方としてここに来られたら、みんなイエスを信じるだろうと言う方がいます。そうしたら信じる信じないということではなく、なんといっても目の前にイエスがおられるのですから。

 しかし実際にイエスを目の前にした者たちは、なんとイエスを拒否して、迫害し、十字架にかけて殺しました。


 きっと今の時代にもイエスが来られたら、イエスに従う者と、イエスに逆らう者とに分かれるのだと思います。私は、あのイエスの時代にいたら、イエスに従っただろうか、それともイエスに逆らう者だったであろうか、どっちだったろうか、考えさせられます。

 

 イエスをメシヤとして受け入れた者は、自分の弱さを知り、自分の罪を知り、自分には救い主が必要だと自覚している者たちでした。

 私は、今日も、救い主イエスを求めている者だろうか、正しい人ではなく罪人を招いて救うために来たというイエスの招きに応える自分だろうか。

 しばし考えさせられます。

 

 天の父なる神さま

 私は、イエスに従う者か、それとも逆らう者か、どちらでしょうか。いつも主の御前にへりくだり、イエスに喜んで従う者でありますように、私たちの心と歩みを守ってください。

 主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン

文:関真士


 
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