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Tropical Leaves

HCCディボーションブログ

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「主よ なぜ あなたは遠く離れて立ち

苦しみのときに身を隠されるのですか。 」 1節


 詩篇 10篇は助けを求める祈りと言われています。 私たちも苦難の中にいる時に真 剣になって神に祈る時があります。 苦難の中にいる時は、 とても不安で心細くて、 恐怖 が押し寄せてくる思いです。 私もそのような経験をしたことがあります。 作者は、 そう いう苦しみのときになぜ神は身を隠されるのか (沈黙をされる) と叫んでいます。 そし て、悪しき者 たち(神はいないと言う者たち)は栄えており、弱い人々を虐げている と述べています。 これはヨブ記にもありました。 私たちが今いるこの世の現実状態であります。


 知り合いが、クリスチャンになってしばらくしてから大変な苦難にであった時に言わ れたことが思い出されます。「こんなに辛い目にあうならクリスチャンにならなければ よかった。」と。 その時はわかりませんでしたけど、 今ならその方の言われたことが理解できます。 クリスチャンになったらきっとすべてが上手くいく人生になるだろうと期待します。 大きな試練がくる時もあるということなどは、まるっきり頭の中になかった です。 そのような大きな試練にであった時に、私たちクリスチャンがどのようにして神 に向き合っていけるかが問われるところでもあります。


 しかし、 詩編 10篇の作者はこのような不条理の現実を認めながら12節から15節ま

で、神の正義を信じて叫ぶのです。

「主よ 立ち上がってください。

あなたは悪しき者を見ておられました。

悪しき者と邪悪な者の腕を折り

その悪を探し出して

一つも残らないようにしてください。」


 私たちも「神はおられる。 すべてをご覧になっておられる。」 と確信をもって、 神の 正義を信じて叫び続けていくことだと思います。


天の父よ。 今日の御言葉を心から感謝します。 この世で生きている私たちは、不条理 なことに遭遇することが多々にあります。 そのような時には、 「主はどんなときにも私 たちと共におられる。」 ということを覚えていくことができますように導いてくださ い。 感謝して主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン


 

「私の敵は退くとき、御前でつまずき、ついえます。あなたが、私の正しい訴えを聞かれるからです。義の審判者として王座についておられるからです。」(3,4)


 ダビデは自身に注がれる神の恵みと、その恵みに対する応答としての賛美を記します。一方で、ダビデの敵に対する言及には容赦がありません。

「あなたは、国々を叱り、悪しき者を滅ぼし、彼らの名を、とこしえに消し去られました。」(5) 

 

 味方と敵に対する描写は正反対です。その味方か敵かの判断は、神の側にいるか、神に逆らう側にいるかの違いです。

 ダビデは神を中心に判断します。ですから神の味方である自分に敵対する者は、神に敵対する者とみなしました。


 私たちは、神の味方か敵か、どちらでしょうか。主イエスを信じて救われるということは、神が私たちの味方になってくださるということです。神に逆らう側にいた私たちを、神の側に入れてくださるということなのです。

「神が私たちの味方であるなら、誰が私たちに敵対できるでしょうか。」(ローマ8:31)

 神に逆らっていた私たちを、神の味方にしてくださった、これが救いの一つです。


 神は私たちの味方です。ですから誰も私たちの敵対することはできないのです。詩篇の中には、神の味方に対する祝福と、神の敵に対する裁きが記されています。私たちは、神の味方として神の祝福を受け取っていきたいと思います。


 天の父なる神さま

 あなたの恵みによって、あなたが私たちの味方になってくださったことを感謝します。私たちが神に従って、勝利から勝利に進むことができますように。間違っても、神に敵対することがないように、どうか弱き私たちの歩みを守ってください。

 主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン

文:関真士


 

『人の尊厳』


 ここには、最初(1節)と最後(9節)は、主への語りかけ「主よ 私たちの主よ」から神を讃えることばで満ちています。創造主を讃え、世界をお造りになったみわざを讃えながら、そのような偉大な神が

目をかけて下さっている、ちりから出来た私たち人間に栄光と誉れを下さったと対比しています。


5節「あなたは人を、御使いたちよりわずかに低く造り、これに栄光と誉れの冠をかぶせました。

私たち人間は、病気になったり、すぐに現実問題で悩んだりする弱い者です。そのような弱い私たちを神は、心に留めて下さっているというのです。そして御使い、天使よりもわずかに低く造られたというのは大変なわざであったと思うのです。 確かに、人には神に似せた創造力、例えば音楽であったり、絵画であったり、芸術だけではなく、色々な材料を使って子供達においしものを食べさせる料理にも、創造力が働いていると思っていますが、しかし、私たちには限界があって、天使のように神に直接近づくことはできません。天と地上を行き来することもできません。永遠の命も未だ頂いておりませんので、御使いたちよりもわずかに低く造られたと記したのであろうと思います。 創世記を読んでも、天使やサタンの創造は記されていませんが、天地創造の六日目に、人が造られたことを、非常に良かったとすべての創造のピークとして位置付けています。私たちに神は栄光と誉れの冠を用意されているのです。


 アダムは確かにちり(アダマー)から造られ、罪を犯したために肉体と霊的死を迎えてしまいますが、神のかたちとして、地の上を這うすべてのものを支配するように設計された、神の作品であり、そこに

人の尊厳があるのでしょう。同時に人はその弱さの故に、迷います。どちらの生きる道を選ぶのか、職業だけでなく、人生の伴侶を選ぶ時、家を買う時、何が主が求めている道なのかが見えないので、悩むわけです。まっすぐに歩みたいと思っても、歩めない。善を行おうと思っても、かえって悪い結果を招いてしまう、しかし神は初めから弱さをもった人間としてお造りになった。その弱い人間を神は心に留めて、考慮して下さっている。すばらしい恵みではないでしょうか。


 弱いからこそ、神をより頼み、神に祈る存在なのです。そして神に満たされてはじめて、人は人となる。人としての魂が回復するのではないでしょうか。ヘブル書2章6〜7節には、この詩篇8編が引用されています。そしてヘブル書2章10節には主イエスが、弱い私たちを栄光に導くために十字架にかかられたことが明記されているのです。「多くの子たちを栄光に導くために、彼らの救いの創始者を多くの苦しみを通じて完全な者とされたのは、万物の存在の目的であり、また原因でもある神に、ふさわしいことなのです。」


祈り

神が私たちをみこころに留めてくださり、御子イエスまでもこの地に送ってくださって、私たちの救いのために、私たちが頂いた尊厳を取り戻すように、十字架にまでかかって下さった事に感謝いたします。アーメン 

文: 森 宗孝


 
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