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Tropical Leaves

HCCディボーションブログ

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 なんと美しい詩篇でしょうか。一言一言が身に沁みます。その中から一か所だけ取り上げます。


「私はいつも、主を前にしています。」(8)


 ダビデは、主を前にして歩みました。この「前に」ということばは「透かす」という意味があるそうです。ダビデは、主を透かして向こうを見ていたということです。

 ダビデは、いつも、主を通して物事を見ていました。それは、主の目で、主の耳で、主の口で、主の心で、物事に対するということです。


 WWJD What would Jesus do?  イエスさまならどうするか? この事を人生の判断基準として、いつも歩んでいきたいと思います。それが、主を前に置くことです。

 いつの間にか、主の前に先走っていることがあります。自分は、今どこにいるのか? 主を前にするということは、主のすぐ後ろにいるということです。主の御足に後に従って行く、まさに主の弟子の姿です。


 天の父なる神さま

 あなたは、いつも私たちの前にいてくださることを感謝します。私たちがいつも主を前において、主を通して物事を判断していくことができますように。どうか聖霊なる神が助け導いてください。

 主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン

文:関真士


 

『主の幕屋』


 ダビデ王が契約の箱をエルサレムに迎えた時に、先頭に立って踊りながら入城した場面は映画にも出てきたりしていますが、長い間イスラエル民族から離れていた、この契約の箱をエルサレムに迎える儀式の中で歌われたとされるのが、この15篇ダビデの賛歌と言われている。その後、この詩は歌い続かれて、やがてエルサレムに入城する巡礼者たちが、城門で歌い「主よ だれが あなたの幕屋に宿るのでしょうか。」それに対して城門の中から祭司たちが「全き者として歩み 義を行い 心の中で真実を語る人」だと応答するようになったという説があって、確かにそうだったのではないかと思うのです。


 ダビデ王時代には、主によって神殿を造ることは赦されずに、彼の息子であるソロモン王によって神殿が建てられたことを学びましたので、ダビデ王の時代には、エルサレムには、神殿でなくて幕屋があったのでしょう。そして、この幕屋を張るという言葉(スケーネー)は、新約聖書にも登場していて、ちょうど今、自分が勉強中のヨハネの福音書1章14節「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた」この私たちの間に住まわれたという箇所に、幕屋を張るという(スケーネー)が使われているのです。 つまり私たちの間、聖霊となって心に住まわれる主イエスは、私たちの間に幕屋を張って下さっているという意味になって、私たちは主イエスご自身が神の子羊として、十字架で生贄になって下さったので、主の臨在する幕屋のなかの聖所に入ることができる存在とならしめて下さったという、なんとも意味深い聖書のみことばになって行くのです。


 主イエスは私たちの間に幕屋を張って下さった、だれが幕屋に宿るのでしょうか?

全き者として歩み、義を行い心の中で真実を語る人が幕屋に入る者、果たして私たちは、そのような者であるかどうか?朝起きて、鏡に自分の顔を写し見て、主イエスのように全き者として歩んでいるだろうか。主イエスの求める義を行う力が今日も与えられますように、心の中で真実を語るように、人との交わりの中でも主の真実を語れる勇気を与えて下さるように、今日1日を大切に、主と共に過ごせるようにと願ってゆきましょう。


祈り

主イエスが私たちの間に、幕屋を張ってくださって、臨在して下さることに感謝致します。どうか私たちが胸をはって、全き者として歩むことができますように、主が手を伸ばされて、引っ張り上げて下さろうとされておられる事に感謝致します。

アーメン 

文:森 宗孝


 

『主に叫ぶ者と呼び求めない者』


 この14篇と53篇を見比べてみよう。全く同じことが繰り返されている。ただ一つ異なっているのは、「主」の代わりに「神」となっているだけで、あとは全く同じ文章であるのにびっくりしてします。なぜに繰り返されているのか、その理由は解らないものの、14篇の主の意味合いには、贖いの神もしくは契約の神という言葉で、53篇はエロヒーム、天地創造の神という違いがあるようです。もしかしたら単に

ダビデが好んでよく歌った詩なのかもしれませんね。ダビデは主を求め叫びましたが、この世は主を求めない者で溢れているというのです。


 愚か者は心の中で「神はいない」と言う。自分自身の人生の中に神の存在を考慮せずに生きている、それが愚かというのです。さて昔の自分を振り返ると、神はいないと否定して育ったわけではなく、神は自然の中、人の人生の中におられるであろうとは感じていたものの、自分とは関係のない存在というか、その神がどのような神なのかを求めようとすらしていなかった。これも愚かのうちでしょう。どちらかというと、創造論の異端的解釈の中で、神はおられる、そして神が世界をお造りになったが、造られた後は、ほっておかれた。例えばネジを巻いた置き時計のように、お造りになったあとは、自然の成り行きに任せたという解釈に近い立場であったようだと今になって思い起こします。


 しかし、私たちの神、主イエスが過去も現在も、将来にわたって係ってくださっていると理解したのは、やはり聖書と出会い、みことばを聞いて納得しながら導かれたせいだと確信しているのです。長い自分の人生の間には、節目(Turning Point)がいくつかあります。独身で一人暮らしの自分が、妻と出会い結婚して、二人の生活を始めたことは大きな節目でした。会社人間だった自分が、会社自身が合併することで、一緒に働いていたチームが全員レイオフになった時の驚きは、今でも忘れられない、人生の節目でした。娘が生まれて、家族になった時、娘たちが家から巣立った時、それぞれが節目であったのですが、一番の節目となったのは、主のみことばに本当に出会って信じたことだったのではないか、それがその後の自分の人生に与えた影響は計り知れないものでした。ダビデは、この世に失望しながらも、主と一緒に幕屋に暮らすことに希望を見出して、書いた詩がこの14篇でした。


 ダビデは、「主は天から人の子らを見下された、そしてだれも善を行う者はいない。だれ一人いない」とこの世のことを描いている。しかし、そのような中でも主は彼の避け所であるとダビデは確信して、やがて、イスラエルは栄え、豊かになり、命を楽しむであろうと希望を託している詩なのです。


祈り

私たちは、主の御前には知恵の足りない者ではありますが、いつも、どこでも主を呼び求める者でありたい、天にまします我らの主よ、神さま!と呼び求め続けることで、私たちと命の繋がりを持ってくださり、苦難の時に逃げ込むことのできる避け所であることに感謝致します。 アーメン 

文:森 宗孝 


 
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