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Tropical Leaves

HCCディボーションブログ

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『神の啓示』


「啓示」とは人間の力では到達できない心理を創造主が人間に伝えることであると解説にある。


 私は、まだ未信者であった頃からこのような「啓示」を経験していた。まさにトマスのように、実際に見て触れてみないとわからない私にわかる形で教えてくれた。


 それは深く考え悩みながら、犬の散歩をしていると、街灯が2-3回ふんわりと点滅するのである。

 仕事で辛い思いをして信号待ちをしていると、街灯がまたもや点滅。それは引っ越してからも10年以上続いた。亡くなった主人だと思うと、私が言うと、クリスチャンの友人が「それ神様かもしれないよ」と言った。それでも頑なにイエス様を信じようとしなかった。

 その友人宅でバイブル・スタディに参加した時、私を救った御言葉に出会った。エレミヤ書29章の11節である。

「わたし自身、あなたがたのために立てている計画をよく知っている──主のことば──。それはわざわいではなく平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。」

 これを朗読した時、涙が溢れ友人宅の電気がふんわりと3回点滅したのである。「私が神だ」と言われた。


 19篇は前半が自然から受ける神の啓示、そして10節からの後半が律法から得られる神の啓示が記されているという。また、19篇は詩篇の中で最も美しい詩だと言われている。

 ハワイの青い空を見上げると嬉しくて涙が出てくる。神様の被造物はなんと美しいのかと、日々感謝するのみである。


天の父なる神様、

詩篇19:2-5 JDB

「昼は昼へ話を伝え夜は夜へ知識を示す。話しもせず 語りもせずその声も聞こえない。しかし その光芒は全地にそのことばは世界の果てまで届いた。神は天に 太陽のために幕屋を設けられた。花婿のように 太陽は部屋から出て勇士のように 走路を喜び走る。」

あなたの啓示を従順に受け取り自分の深いところまで響きますように、私たちを整えて下さい。主イエス・キリストの御名により祈ります。

アーメン

文: マッカーター政子



 

 詩篇18篇は第二サムエル記22章に載っている歌と同じです。これは主が、ダビデをサウルから救い出された日に歌った歌、主を慕い求めたダビデが、勝利の喜びと主への感謝と共に、主の示されたダビデへの深い愛を歌ったものです。


 この詩篇からも沢山のことを学べますが、今日はそのひとつ、「謙遜」について学びたいと思います。「…あなたの右の手は私をささえ、あなたの謙遜は、私を大きくされました。」(35)


 ダビデがこれまで多くの敵に襲われながらも生かされ、やがて敵を追い打ち滅ぼすことができたのも、また国々のかしらに任じられたのも、「主の前に全き者」であるダビデを、主は自分のことを「喜びとされたから」(19)ですとダビデは歌います。


 ダビデは、これまで多くの敵に襲われ、危険や苦しみの中にいた時、主に助けを叫び求めました。その真実なダビデの声は主の御耳に届き、主は、どこかの会社の名ばかりの社長のようにただ単に社長の座に座っているのではなく、天の御座から、わざわざ神ご自身が「天を押し曲げて降りて来られた」のです。ダビデはそこに神の「謙遜」を見たのだと思います。


 主は、ダビデを民の争いから救い、国々のかしらに任じました。そして彼の知らなかった民さへも彼に仕え、彼のいうことをすぐに聞き入れ、彼に取り入りました。ダビデはイスラエルだけでなく、周りの多くの国々の民からも、その軍事力や王としての力を認められていたのです。それでも彼は主の御前に、敵は強く自分は弱いものという自分を認め、そういう自分でも主が「大きくされた」と、また神を信頼し助けを求めなければ自分だけでは何もできないと信じ、それを賛歌しました。それこそ私たち人間が神の前に持つべき謙遜な姿だと思われます。


 私たちがスポーツの試合で優勝したり、仕事のことで大成功をしたり、何かのコンペで最優秀賞をもらったりする時、周りの人たちに褒められちやほやされるとき、ついつい高慢になってしまいます。しかし自分がそのような勝利の中にいるのも、主が謙遜になって弱い私たちのもとに降りてきて、私たちを大きくしてくださったからで、私たち自身もまたダビデのようにいつも謙遜な心を持ちたいと思います。



 愛する天のお父さま、私たちが苦難の中にいる時、私たちがあなたを叫び求める時、私たちのために謙遜になり、あなたがダビデのために謙遜になり、天の御座からこの地に降りて来られたように、私たちをも助けてくださることを感謝します。これから私たち自身もあなたの前で、人々の前で謙遜に生きることができますよう、お導きください。イエス様の御名によってお祈りします。アーメン


 

 詩篇17篇はダビデがサウル王から追われていた時に作ったものだと言われています。


 ダビデは1節から5節まで自分が正しく歩いてきたことを強く訴えています。神が自分を炉で試されたが、何も見つからなかったとか、又、主の唇のことばに従い、無法者が行く道を避けてきたと、それだけ自分は正しい道を貫いてきたということを述べています。


 しかしそんなダビデでも、神への訴えから呼び求めに変わっています。それは、どんなに正しく歩いてきてもサウル王や自分の息子、家来たちから命をねらわれるということです。そのような時に、ダビデは人の力に拠り頼むことをしませんでした。ダビデのすばらしいところは、ただ主なる神だけが自分を救ってくださるお方だと強く確信していたのです。ダビデは自分が弱いときに、主が守ってくださると信じていたのです。


「わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである。」コリント人への手紙 第二12:9(抜粋)


「あなたの右の手で 奇しい恵みをお示しください。」7節(抜粋)


 7節の「右の手」というのに目が留まりました。聖書のなかで「右」というのがよくでてきます。調べてみると、「右」は神の権能、神の不思議で神秘的な力、全知全能の神を象徴すると言われているそうです。聖書は言います。右の座は、全能の救世主、人を救う神の座する場所が「右の座」であると言われているそうです。使徒信条のなかでも述べられています。


「全能の父なる神の右に座したまえり、

 かしこより来たりて、生ける者と死にたる者とを審きたまわん。」使徒信条


「私の義の右の手で、あなたを守る。」イザヤ書41:10(抜粋)


 イエス・キリストは、神の右の座におられて今も私たちのために執り成して下さっておられます。このイエスさまの天上での執り成しがあるから私たちは大胆に祈ることができるのです。 



 愛する天の父なる神さま。今も、イエスさまが、あなたの右の座におられて私たちの為に執り成してくださっておられることを心から感謝します。感謝して主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン


 
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