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Tropical Leaves

HCCディボーションブログ

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『嘆きから賛美へ』


 この22篇は、まさに主イエスが十字架上で、お語りになったことばが記されていて、22篇の最後にはこの初めの嘆きが賛美に変わることを表した詩篇です。第一コリント1章18節「十字架のことばは、滅びる者たちには愚かであっても、救われる私たちには神の力です。」このみことば通りに、十字架の主イエスのことばは、受け取る側にとっては、愚かに聞こえる場合と神の力として勇気を与えて下さる場合に別れます。聞く者の姿勢によって全く異なることを理解しましょう。


 マタイ27章45節やマルコ15章34節で、十字架のイエスは「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」と闇が全地をおおった後に語られました。今までは、天なる神を常に父と呼ばれていたイエスは、ここで初めて「わが神」とおっしゃられました。十字架の肉体的苦しみの上に、さらに永遠のかなたからいつまでも共におられた父なる神が、罪を背負った主イエスに対して、目をそむけ、子なるイエスが父と別々になられた、その瞬間のみことばですが、これは救われる私たちにとっては、主イエスが詩篇22篇をすべて要約して語られた言葉であると信ずるわけです。信じない者にとっては、主イエスといえども、この十字架で神から見捨てられたと嘆いているではないか、と反論します。主イエスは神の子ではなかった。ちょうど十字架の周りの者や同じく十字架にかけられた罪人が、神の御子ならば、十字架からおりてみろ、そうしたら信じると言っているのと同じですね。


 もしも主イエスが詩篇22篇を要約して、22篇の1節「わが神 わが神 どうして私をお見捨てになったのですか。私を救わず 遠く離れておられるのですか。私のうめきのことばにもかかわらず。」と理解すれば、主イエスの十字架での苦しみが、極限であったことをも理解します。しかしそれだけでは終わらないのです、肝心なのは、この22篇は嘆きが賛美に変わる詩なのです。


 主イエスの十字架を目の前にしたように22篇の詩は、続きます。18節「彼らは私の衣服を分け合い 私の衣をくじ引きにします。」まさに主イエスの衣はローマ兵がくじ引きで分け合ったのです。マタイ27:35「彼らはイエスを十字架につけたから、くじを引いてその衣を分けた。」詩篇22篇7〜8節には「私を見る者はみな 私を嘲ります。主に助け出してもらえばよい」まさに十字架の主イエスをみて、嘲笑った祭司や群衆のことばそのものです。


 しかしながら、皆さん、22篇の最後の節を良く読み込んでみましょう。29〜31節抜粋「すべての者が主の御前にひざまずく主のことが世代を超えて語り告げられます。主の義を告げ知らせます。主が義を行われたからです。」まさに、主を信じるクリスチャンたちが、世代を超えて語り告げていることを、預言的に語っています。 イエスの十字架のことばは、間違いなく、諦めや嘆きのことばではなく、最後には、賛美に変わってゆく、詩篇22篇を心に思い浮かべた者たちは、主イエスの本意を理解したと確信します。


祈り

 主のみことばには力があって、信じる者には嘆きのことばではなく、やがて賛美に変わってゆくことばとして、理解できる力を聖霊が与えてくださっていることに感謝致します。アーメン 

文:森 宗孝


 

『あなたの現れのとき』


 ダビデはここで、自分自身が王として仕える治世を守って下さっている主に感謝する、王の歌であると同時に、自分のことではなく、5節a「彼の栄光は大いなるものとなり」と彼の栄光、つまり第三者としての彼、主イエスのことも預言的に語っていると思うのです。


 その彼は、御救いによって、彼の栄光は大いなるものとなるのですから、主イエスの初臨について、預言的に語っているのですが、同時に9節「あなたの現れのとき あなたは彼らを燃える炉のようにされます。主は御怒りによって彼らを呑み尽くし 火は彼らを食い尽くします。」これは、ダビデが主の力によって、彼の敵を滅ぼして下さったことを意味しているのかもしれませんが、むしろ、まだ私たちが見ることのない、主イエスの再臨のとき、地上から悪の子孫を滅ぼしてしまう「主の日」のことを,ここも改めて、預言的に語っているのではないでしょうか。主イエスの初臨と再臨のイメージが同時にダビデに与えられたのではないかと思います。


 ダビデも経験しましたが、私たち自身も、信仰をもったとしても、信仰の生涯は戦いです。けっして信仰のゆえに、すべてが万事うまくゆく、私には悪いことは起こりませんということではありません。しかし、主が良い時でも、苦難の中においても、常におられて見守って下さることが感謝です。


 信仰は戦いと言いましたが、旧約時代には、預言として救い主が来られるというコンセプトと、裁き主が来られるというコンセプトの二つが、ちょうどダビデが描いているように、二つが混ざっていて、それには時間の差はなく、私たちが理解しているのよう、実に救い主である主イエスが地上に2度現れるということまでは、理解していません。ですから、救いと裁き、つまり主の初臨と再臨が混ざって表現されていると思います。


5節b「威厳と威光を あなたは彼の上に置かれます

 まさに主イエスに、父なる神は威厳と威光を与えられました。詩篇はダビデの詩ではありますが、非常に預言的な面もあることに感謝します。


祈り

 私たちもダビデ同様に信仰の戦いに加わった者です、しかしすべてが万事うまく行くという戦いではないことも理解します。負けることもあるでしょう、苦しいことも味わいます、しかし必ず主がおられること、見守ってくださり、失敗しても私たちを愛してくださっていることに、心から感謝致します。アーメン

文: 森 宗孝


 

 詩篇20篇の1節から5節までに「あなた」という言葉が10回もでてくる。今までのダビデの歌と違っています。この「あなた」というのは誰のことでしょうか。解釈者によると、サウロ王ではないだろうかと言われていて、彼への執り成しの祈りと言われているそうです。自分の命を狙うサウル王のために執り成しの祈りをしてあげるということがとてもすごいことだと思わされます。


 9節でダビデは言っています。

「主よ。王をお救いください。

 私たちが呼ぶときに答えてください。」


 この御言葉からして詩編20篇は王への祈りだということが理解できます。この王というのは、現代でいうなら高い地位にある人のことを言うそうです。つまり、大統領、総理大臣、会社の社長、リーダー達、等々に例えられます。党派は別として彼らのために祈ってあげることだと言うことです。今も世界のどこかで戦争している国々のリーダーたちのためにも、私たちが真剣になって祈っていくことだと思います。


 9節のダビデの祈りは、イエス様が十字架上で父なる神に祈られたことを連想させられます。


「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」ルカの福音書23:34(抜粋)


 これは、イエスを死刑にしたユダヤ人、ローマ兵たち、又、私たちのためへの祈りでもあるのです。人を赦すことはとても難しいことだと思います。しかし、イエス様は私たちのために執り成しの祈りをされたのです。この無償の愛で救われた私たちも、他者から迫害を受けてもその人のために執り成しの祈りをすることができるようになりたいということが示されました。



 天の父なる神様。

あなたの御名を心からほめたたえます。

今日の御言葉を感謝します。他者から蔑まれ、意地悪されて、迫害されてもその人を赦し、祈ってあげることができますように義の道へと導いてください。感謝して主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン。


 
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