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Tropical Leaves

HCCディボーションブログ

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「主よ 私を弁護してください。私は誠実に歩み よろめくことなく 主に信頼しています。主よ 私を調べ 試みてください。 私の心の深みまで精錬してください。あなたの恵みは 私の目の前にあり あなたの真理のうちを 私は歩み続けました。私は不真実な人とともに座らず 偽善者とともに行きません。悪を行う者の集まりを憎み 悪しき者とともに座りません。手を洗い 自らの潔白を証明します。主よ 私はあなたの祭壇の周りを歩きます。感謝の声を響き渡らせて 語り告げます。あなたの奇しいみわざのすべてを。主よ 私は愛します。あなたの住まいのある所 あなたの栄光のとどまる所を。どうか私のたましいを 罪人どもとともに 私のいのちを 人の血を流す者どもとともに 取り去らないでください。彼らの手には悪事があり その右の手は賄賂で満ちているのです。しかし私は 誠実に歩みます。私を贖い出してください。あわれんでください。私の足は平らな所に立っています。数々の集いで 私は主をほめたたえます。」


 26篇は、主に在って、正直で誠実に歩みたいと切望する者の心情を表しています。そのように生きるためには、主に信頼し、自分の内面・動機に至るまで主に明け渡し、神の愛を常に意識して、不正な者たちと距離を置き、きよさを求め、感謝をもって神を賛美する、とあります。主の恵みの中で生かされているにも関わらず、みこころよりも自分の都合を優先してしまった結果、罪が示されることがあります。そんな時、自分で自分を告発するのではなく、悔い改めて、主の赦しを得ることが大切です。赦しという恵みに与る祝福に心から感謝し、賛美をささげたいと思います。


祈り:「もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。」 

愛する天のお父さま。このヨハネの手紙第一1章9節のみことばをありがとうございます。イエス・キリストの御名によって感謝して祈ります。アーメン。


文:アイゾン直子


 

 詩篇24篇は、詩編22篇と詩編23篇とともにメシア的詩編の「三部作」と言われているそうです。


 詩篇22篇は「キリストの受難」過去

 詩篇23篇は「キリストを通して与えられるいつくしみと恵み」現在

 詩篇24篇は「キリストの栄光の王としての再臨」未来


 7節のみことばに目が留まりました。

「門よ おまえたちの頭を上げよ。永遠の戸よ 上がれ。栄光の王が入ってこられる。」

ここで言う「門」というのはエルサレムの神殿の門のことで、ダビデ王が凱旋から帰還したので門を開けよと連想しますが、実は、そうではないです。ダビデ王はエルサレムの神殿が完成した時にはいませんでした。ここでいう栄光の王とは、万軍の主のことです。


 7節のみことばは、私たちの礼拝をする心の持ち方だとも言われているそうです。礼拝で、主の臨在のなかにいれてもらえるのは、私たちの頑なな心を悔い改め、真な心を開いて、主を待ち望むことだと言われているそうです。栄光の王であられる万軍の主が入ってこられるような礼拝を持たせていただけることは、私たちクリスチャンのゴールでもありますね。


 「栄光の王」という言葉が7節から10節まで5回でてくるのは、この24篇だけで、きわめて重要なことばと言われています。


 私たちは、キリストの十字架によって今の慈しみと恵みのなかにおらせていただいています。さらに、私たちの未来は、栄光の王としてこられる主イエス・キリストの再臨を待ち望む希望があります。その希望に向かって、日々悔い改める心を忘れずに義なる道へと歩んでいくことではないでしょうか。



 愛する天の父なる神さま。心から主の御名を賛美します。

私も以前は、永遠の戸を上げることができませんでした。永遠の戸を上げてもらうことのできるお方は、主なる神ただお一人であるということも知らないで、罪のなかにいました。しかし、イエス様の十字架の血潮によって罪の鎖から解き放してくださり、自由が与えられ、永遠のいのちがあたえられました。永遠の戸を上げてもらえました。このようなイエス様の無償の愛を多くの人に伝えることができるように用いてください。感謝して主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン


 

 聖書の中の「真珠」と呼ばれる、詩篇23篇。詩篇の中でも、とりわけ有名な詩篇の一つです。1節1節のことばが真珠のように美しく輝いています。

 そして、この詩篇は、ダビデの晩年の詩であると言われています。


 1,2節では、かつて羊飼いをしていたダビデだからこそ描ける、羊飼いである神と羊である自分との関係を美しく表現しています。

 3節は、ダビデが霊的に死んだ経験が背景にあると思われます。それはバテシェバとの姦通とウリヤの殺害という罪を犯したときの経験でしょう。そこから生き返るという経験は、ただ「御名のため」という、神の名誉のためであったことが分かります。

 4節は、戦士でもあったダビデはたびたび「死の陰の谷」を歩んだことでしょう。あるいは、実子アブサロムのクーデターによって都落ちした時のことかもしれません。ここに記されている「むちと杖」、私は長らく、これは自分に向けられている神の懲らしめだと受け取っていましたが、最近これは敵に向けられているものだという受け取り方もしています。あなたは、「むちと杖」は、誰に向けられていると感じるでしょうか。

 5節は、当時の習慣が背景にあります。それは、旅人が敵に襲われ、その旅人が家に逃げ込んで来た場合、家主を旅人を受け入れ共に敵と戦うというものです。神は、人生の旅人である私たちと共に戦ってくださり、余裕の勝利を与えてくださるのです。

 6節は、ダビデの生涯を締めくくるに相応しい、彼の信仰告白です。彼の実感は、自らの人生を振り返ったとき、神の恵みと慈しみが追いかけて来るようであったということです。

 そして、ダビデの生涯の願いを一言で現わすと、「いつまでも主の家に住むこと」でした。


 私たちも、自らの生涯の終わりに、このような美しい詩篇を奏でながら、主を賛美して過ごしたいものです。私たちの過去を振り返るとき、そこには神の恵みが満ち溢れています。将来を見るならば、そこには希望があります。

 過去には感謝、将来には希望、そして今この時は賛美、そんな人生を歩んでいきたいです。 


 天の父なる神さま

 私たちの主と共に歩む信仰生活、色々ことがありますが、そこには必ず神の恵みがあることを、後で振り返るときに、そこに感謝があることを、感謝いたします。いつもで主と共に、あなたの家に住む者でありたいです。どうか私たち弱き羊を導いてください。

 主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン

文:関真士


 
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