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Tropical Leaves

HCCディボーションブログ

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『主の声』


 主の声について、面白い聖書の表示がある、それは創世記にあるのです。

創世記3章8節「そよ風の吹くころ、彼らは、神である主が園を歩き回られる音を聞いた。それで人とその妻は、神である主の御顔を避けて、園の木の間に身を隠した」ここにある歩き回られる音と訳されていますが、音ではなく声が直訳のようです。続く9節も、あなたの足音を聞いたとありますが、声を聞いたが直訳のようです。主の声は主のことばです、ヨハネの福音書1章1節b に「ことばは神のともにあった。ことばは神であった。」そのように考えると、御子イエスが園の中で、父なる神の声としておられたという場面になると思います。


 それで、この詩篇29篇には、何回も主の声と主別々に描写されていますが、これを自分は父なる神(主)と主の声(イエス)として読み直してみました。そして、1節にある「力ある者の子らよ、は神の子らよとも訳せるので、神の子らよ(私たち)よ、主(父なる神)に帰せよ。(立ち戻りなさい)と声をかけているのではないでしょうか。主に戻ってひれ伏しなさい、崇めなさい。ひれ伏さない者には、主の声(イエス)は力強く、レバノンの木を打ち砕き、炎のように、父なる神に叛逆する者を打ち倒すのですよ。と呼びかけている。どうか主に戻る神の子でありますように、逆らい続けて、打ち倒されませんように。戻って来るなら、父なる神は、とこしえに王座に居られて、信じて、自分を崇める民に平安をもって祝福される、祝福の神だからです。


 神の子とされたのに、主に立ち帰らない理由は、私たち、すべての者はOriginal Sin(原罪)を背負っているからでしょう。アダムとイブが善悪の実を食べてしまったのは、単に父なる神の禁止事項を破っただけで無く、父なる神に叛逆を起こしたのです。自分達が神のようになろうとしたことで、罪による死が私たちに下されてしまい。この叛逆の罪、原罪から派生するSins(複数形の罪)人を傷つける罪、殺人であれ、誹謗であれ、道徳から離れてしまう罪を犯すようになってしまったのです。ですから主に立ち返れと叫んでいるように思うのです。


祈り

私たち、神の子を力強い子にしてくださった主よ。すべてのものを主の声で創造された主よ。あなたのみわざを覚えて、すべての者が主に立ち帰り、共に賛美しますように導き下さい。アーメン 

文:森 宗孝


 

『知恵はどこから』


 鉱山を掘って、金や銀、宝石を探し出しているけれど、知恵はどこで見つかるのか。14節 深淵は言う「私の中にはそれはない。」海は言う。「私のところにはない。」、非常に興味深い描写ですが、ここでの知恵とは、どのような知恵なのでしょうか。


 知恵で思い起こすのは、ソロモン王、ソロモンは主に願って知恵を得た。シバの女王はソロモンの知恵を試そうと、心にあることをすべて彼に問いかけて、ソロモンはすべての問いに答えた。彼女はソロモンに「あなたの知恵は聞いた通り本当でした。」しかし、この28篇での知恵は、このソロモンの知恵ではないように思うのです。百科事典のように、すべてを知って、解決策をも教える知恵、今のAI ChatGPTのような知恵ではない。ソロモンには神からの知恵が与えられたので、神の義がわかる知恵だったかもしれませんが、ここの詩篇での知恵は、世間の知恵ではなく、きっと神を知って畏れる知恵であったことでしょう。


 コロサイ人への手紙 1章28節「私たちはこのキリストを宣べ伝え、あらゆる知恵をもって、すべての人を諭し、すべての人を教えています。すべての人を、キリストにあって成熟した者として立たせるためです。」 2章3節「このキリストのうちに、知恵と知識の宝がすべて隠されています。」この隠された知恵は、海の中にも、地中を掘ってもないのです。


 ソロモンの頂いた知恵も、神の義であるキリストにある知恵だったのでしょうか。それでは私たちの知恵はどこから来ているのか。この世を上手に渡ってゆく金や銀、宝石のような財産、、処世術の知恵でしょうか、神の義を畏れ、知らせるための知恵でしょうか。 どうか私たちの羊飼いとなられた主イエスが、いつまでも私たちを携えて導いてくださいますように


祈り

主よ。あなたを畏れ、呼び求める知恵を下さい。そしてその知恵を持って神の義である主イエスを語ることができますように、私たちを導いて下さい。アーメン

文:森 宗孝


 

 詩篇27篇は、主なる神様が私たちと共におられることがどんなに麗しいか、どんなに大きな喜びかを歌っています。


 4節の御言葉が心に響いてきました。


「一つのことを私は主に願った。それを私は求めている。

 私のいのちの日の限り 主の家に住むことを。

 主の麗しさに目を注ぎ その宮で思いを巡らすために。」4節


 ダビデが、主の臨在を自分の命の日の限り、求め続けることを表明されている歌といわれているそうです。これこそダビデが主に願った一番大切なことだったと言われています。私たちもこの世にいる限り、ダビデのように絶えず主を求め続けていくことだと思います。この27篇4節の御言葉を読んでいて、賛美「ただ一つの願い」が思い浮かんできました。この曲は詩編27篇1~5節をもとにした賛美です。これは、1984年にStuart Scottが作曲し、マンハッタンミュージック社より、世にでたものだといわれています。教会でよく賛美されている曲のなかの一つです。


「ただ一つ 私の 願い求めは

 主の家に 住まうこと いのちの限り

 うるわしき 主を 仰ぎ見て

 主の宮に住み 主を 思う」


 そして、詩編14節も私たちがよく歌う賛美です。

「待ち望め 主を。

 雄々しくあれ。 心を強くせよ。

 待ち望め。 主を。」


 神が見出せなくなっているなら、待ち望めばいい。ダビデは自分自身に信仰の言葉を言い聞かせていくという、まるで自分への応援歌のように思わされました。


 愛する天の父なる神さま。この地上においてはいろんな困難があります。その時にあきらめずに、主を待ち望むことができますように。心を強くして、主を待ち望むものしてください。感謝して主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン。

 
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