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Tropical Leaves

HCCディボーションブログ

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 この37篇は、箴言のような体裁の文体です。一つ一つの御言葉が宝物のようです。

 全体を通して「正しい人」と「悪しき者」とが対比されています。


 特に心に残ったのが、この御言葉です。


「あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。」(5)


 私が今歩んでいる「道」があります。この道は、いつも同じではありません。ある時は平坦な道、下り道、坂道、曲がりくねった道…道は色々です。

 思い返せば、私も色んな道を歩んできました。そして今この道に立っています。そしてこれからも、その道を歩む旅路は続いていきます。

 ただ時々、道に迷うことがあります。だからこそ道先案内人が必要です。その道を共に歩んでくれる、旅のガイドが必要なのです。

 道をゆだねるとは、その道のガイドをイエスに任せることです。山に登る時には、ベテランのガイドが必要です。でないと山登りで道に迷ったら命取りです。ガイドにすべて頼って、任せて、ついていくのです。

 ですから、ガイドに対する信頼がないとなりません。私たちの主は、信頼に足るお方です。そしてこのお方は、必ず私たちを行くべき所にまで導いてくださるのです。


 これからも、私の道を主にゆだねて歩んでいきたいと思います。


 天の父なる神さま

 これまでも、今も、これからも、主よ、あなたが私たちの人生のガイドです。私の道をあなたにおゆだねします。あなたの導きに信頼します。どうかあなたから目を離さないでついていけますように、私たちも歩みを守ってください。

 主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン

文:関真士


 

『注いて下さい、あなたの光を』


 ここでは、暗闇である悪の道と、光である主が対象されています。しかし、光といっても太陽光線の光では無く、神の栄光の光でしょう。創世記1章4節に「神は光を良しと見られた。神は光と闇を分けられた。」第1日、ここにもある光も神の栄光の光です。 なぜなら、第4日目に、初めて太陽と月と星が造られたからです。この神の栄光の光を注いで下さいとダビデは願っているのです。


 この詩篇36篇9節「いのちの泉はあなたとともにあり あなたの光のうちに 私たちは光を見るからです。」悪き者には、神に対する恐れがないのです。闇を好んで自分の判断で、良くない道に堅く立ってしまっている。

しかし、主の家は豊かさに満ち溢れ、楽しみの流れで人の子を麗しくして下さいます。最初に表されている悪人と、主の光にいる者の違いを見ることができます。この世界のすべての歴史は、神の審判であるとヘーゲルは語っています。


 そして、ヨハネの福音書1章4節でことばとしての主イエスを語って、「この方にはいのちがあった。このいのちはひとの光であった。」とイエスは神の栄光の光であるとヨハネが語っていますが、ダビデは知らず知らずのうちに、この光としてのイエスを心に浮かべているのではないかと思うのです。イエスも聖書はわたしのことを語っているのだとも仰っておられましたね。


 旧約時代のダビデは、この主の恵みを注いでくださいと願っています、私たちは、十字架のイエスを知っていますので、主の恵みはすでに私たちの上に注がれていることを、喜びをもって応えることができるのです。しかし主の恵みは、同時に神の義とともに注がれているのですから、神の義をなおざりにしてしまうと、恵みのほうも届かない、まさに恵みと義はワンセットで下さっていることを覚えておきましょう。 主の栄光の光が注がれると、永遠のいのちが泉となって湧き出て、豊かさと楽しみで麗してくださいます。どうか私たちも高慢になりませんように、悪き者の手につかまることがありませんように、主の義をもって生きることができますように


祈り

主イエスが光となって、私たちの心と霊と身体を照らして下さっていることに感謝致します。光の中を歩んで、主の義を忘れることがありませんように、主の御翼の陰にわが身をおくことができますことに感謝致します。 アーメン 

文:森 宗孝


 

『私を助けに来てください』


 この詩篇35篇はダビデが、サウル王に追われ、無実で潔白であるのにもかかわらず、はかりごとによって、ゆえなく逃亡の身となった時のことを描いているようです。私たちも人生の中で、自分のせいではないのに、周りの人から辱めを受けたり、嫌われたりした経験はないでしょうか。 ここではもっと厳しく命の危険も、この追い迫る者たちから受けながら、どうか主の使いがきて、このような、わざわいを謀る者たちを追い散らして下さいと願っています。


 そのような苦しみの中にあっても、主が自分のように苦しむ者を、より強い者から救い出される方だと信頼をしているのです。今まで、自分の友人だと思っていた者、良くしてあげた者が、悪意をもって自分に対する証人として、偽証をするのです。 特に今まで成功しているからこそ、そのために、嫉妬されていることさえ気づきません。彼らの中に悪意の思いが芽生えることさえ分からなかったのです。


15節「それなのに 私がつまずくと彼らは喜んであつまり私の知らない攻撃者が、私に向かって集まり休みなく私を中傷しました。」事実、サウル王がダビデを殺そうとした時に、それまでダビデに忠誠を誓っていた者が、手のひらを返すようにして、ダビデを攻撃して来ました。


 私たちもつまずいた時に、手を伸ばしてくれる者が、本物の友人であることを知っています。主よいつまで眺めているのですか。黙っていないでください。この偽り者たちを滅ぼして下さい。あなたの義に従って、裁いて下さい。と私たちも願ったことがないでしょうか。詩篇は私たち人間が、神に向かって、叫び、助けを求めながらも、主の臨在に感謝する詩でもあります。 助けは主から来ることを心から確信して、ののしる者、略奪する者が、彼らの望み通りになりませんように、主の義を知らしめて下さい。


祈り

私たちの義なる祈りは聞かれている。今の苦難は私たちの忍耐が試され、信仰が育つための訓練かもしれないと理解できますように、私たちの魂は見捨てられずに、やがて主と共に喜び、楽しむことを信じます。 アーメン 

文:森 宗孝


 
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