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Tropical Leaves

HCCディボーションブログ

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「私は切に 主を待ち望んだ。主は私に耳を傾け 助けを求める叫びを聞いてくださった。」(1)


 詩篇40篇を読むと、ダビデの祈りには一切の飾りがなく、神さまに助けられたときには心から感謝し、苦しみの中では率直に助けを求めています。その真っ直ぐな祈りができるダビデは、神さまにただただ信頼をおいているように感じます。


「私は あなたの義を心の中におおい隠さずあなたの真実とあなたの救いを言い表します。私は あなたの恵とあなたのまことを大いなる会衆に隠しません。」(10)


 10節では、ダビデが自分に与えられた恵みや真実を、心に留めるだけでなく、他の人々の前ではっきりと言い表すことを誓っています。この言葉を読んだとき、私は「神さまがしてくださったことを、他の人に証ししているだろうか?」と問われたようでドキッとしてしまいました。

 日々の中で神さまの恵みを確かに受け取っているのに、それを忘れてしまっていたり、言葉にできていなかったりしていたからです。


 ある学びのクラスで「主がわたしに良くしてくださったことを書いてみよう」という課題が出たとき、最初は何を書いたらいいのか分かりませんでしたが、書き綴るうちに、忘れていた恵みがいくつもよみがえってきました。神さまは確かに私を助けてくださっていた。私の叫びを聞いてくださっていた。そう思い出されたとき、自然と感謝の心が湧きあがってきたのを覚えています。


 神さまの御心を喜びとし、その義と救いを語るのは特別な人だけでなく、私たち一人ひとりが招かれている歩みなのだと思います。私もまた、書き綴った恵みの中から一つでも人に伝えていけたらと思いました。


 ダビデは恵みを語るだけではなく、40篇の後半、ダビデ自身の罪や苦しみ、敵の存在に押しつぶされそうになりながら、神さまに助けを求め、まっすぐに祈る姿を見せてくれます。私も、ダビデのように神さまの前で自分を隠さずに、感謝も願いも、恐れも嘆きも救いを求め、真っ直ぐに祈る者でありたいと思いました。



愛する天のお父さま

 あなたは私の叫びを聞いてくださいました。でも私は、その恵みを忘れ、語ることを怠ってきたかもしれません。どうか、心の奥にある感謝や願いを、ダビデのように、まっすぐにあなたに祈ることができるようにしてください。そして、私の思いを偽ることなく、証しする者となれますように。イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします。アーメン


 

『神の絶対』


「苦しい時の神頼み」とはよく言ったもので、苦しいからこそ神により頼むのが、いつの世でも普通だと思う。だが詩篇39篇前半でダビデは苦しいのに訴えることをせず口をつぐんでいる。


1節  私は言った。私は自分の道に気をつけよう。私が舌で罪を犯さないように。口に口輪をはめておこう。悪しき者が私の前にいる間は。


2節  私はひたすら黙っていた。良いことにさえ沈黙した。そのため私の痛みは激しくなった。


 話すと神を冒涜してしまいそうで全てに関し口を閉じていた。でも自分の気持ちを押し込めて生きていると心が辛くなる。ついにはこらえ切れず、あと自分はどれぐらい生きられるのか教えてほしいと、主に懇願する。

 2節の「痛み」とは実際の身体の痛みであったかもしれない。神への沈黙を保っていたせいで心の痛みが強くなったかもしれない。または両方かもしれない。

 稀れに見る作者の神様への沈黙、その後の語りかけ、そして神の希望を待ち望む場面である。作者であるダビデはこの時、病気だったのか、体が衰退している頃に書かれたという。

身体に痛みを覚えると心に痛みが同時発生することが多い。逆もしかり。


6節 まことに人は幻のように歩きまわりまことに 空しくたち騒ぎます。人は蓄えるが 誰のものになるのか知りません。


7節 主よ 今 私は何を待ち望みましょう。私の望み それはあなたです。


12節 主よ 私の祈りを聞いてください。助けを求める叫びに 耳を傾けてください。私の涙に 黙っていないでください。私は あなたとともににいる旅人すべての先祖のように 寄留の者なのです。


 6節で、人は幻のように働きお金を蓄えるが、最終的に誰のものになるのかも知らず空しい。7節でやっと神への望みを託し、12節で「私の叫びを聞いて下さい」と訴える。


「よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。」(方丈記)


 この文は、「川の流れは絶えることはないが、そこを流れる水は同じではない。波打ち際の泡のように、人間の生活もはかない」という意味が込められている。

 6節で語られた人の世の空しさと似ている。古代イスラエルでも昔の日本でも人の世は空しく儚いと表現している。



祈り:

天の父なる神様、

私たちにはイエス様がいます。儚いこの人生も天への希望とさせて下さる。口を開けば災い、しかし言わないでいるのも辛い。辛い時も順風満帆の時も私たちは主に祈ることができる。なんという恵みだろう。私は一人ではない、絶対に私を孤児にしないと言って下さる。だから辛い時も神様に望みをかける。生かされていることに日々感謝します。感謝を込めてイエス様の御名により祈ります。

文: マッカーター政子

参照: 


 

 詩篇38篇は冒頭に「記念のためのダビデの賛歌」と記されていますが、その「記念のため」ということばに目が留まったので検索してみました。二人の牧師が違う表現で述べています。一人の牧師は、「悔い改めの記念」そして、もう一人の牧師は「思い出すため」と解釈しています。


 この二つの言葉を見た時に、私が心にふれられたのは「悔い改めの記念」でした。私にとっての「悔い改めの記念」する時は、愛する人達へおかしてきた罪を知ったときです。その時は、洗礼を受けた日から悔い改めへの道があたえられました。


 ダビデは自分の犯してきた過去の罪を赤裸々に主に述べています。18節でのダビデの御言葉に語られています。


「私は 自分の咎を言い表します。

 自分の罪で不安なのです。」18節


 罪を心に持ったままだと平安が得られません。いつも不安です。私自身がそうでしたから。でも、今は罪をおかしたら内なる聖霊によって日々悔い改めることができることは感謝なことであります。私たちは、この世では日々罪との戦いです。それに打ち勝つためには、主の前に自分のありのままの罪を告白し、悔い改めていくことだと思います。


 愛する天の父なる神さま。

あなたの愛するひとり子が私たちの罪のために十字架に架かり死なれた無償の愛を心から感謝します。イエス様の十字架の血潮によって、私たちは愛を知り、悔い改めていく日々が与えられていることができました。罪をおかした時には、いつでも自分のありのままで罪の告白をすることができますように、そして悔い改めへの道へと歩むことができますように導いてください。感謝して主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン


 
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