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Tropical Leaves

HCCディボーションブログ

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『わがたましい』


 42篇とつながっているこの43篇にも5節「わがたましい」が繰り返されている。

そして聖書は、私たち人間は霊とたましいとからだの三要素があると記されています。


 テサロニケ5章23節「平和の神ご自身が、あなたがたを完全に聖なるものとしてくださいますように。あなたがたの霊、たましい、からだのすべてが、私たちの主イエス・キリストの来臨のときに、責められるところのないものとして保たれていますように。」


 父なる神の息吹を吹き込まれて、天とつながる私たちの霊と、自分自身の本能や意志、感情がつまっている私たちのたましい、そして身体、つまり Spirit,Soul,Bodyで成り立っている私たちですが、このたましいにサタンが働きかけることを私たちは理解します。主を畏れない思い、肉欲にひっぱられる本能、他の誰がなんと言おうと、自分自身が正しいと固辞するかたくなさとなって常に誘惑に満ち溢れる、わがたましい。どうかそのような私を助け出してくださいとこの詩人が語っているように思われるのです。


 そして、願いはあなたの光とまことをわたしのたましいに送ってくださり、神の住まい、神のみもとに行って、あなたをほめたたえるように、私のまわりにいる不正から、助け出してください、あなたは私の力の神です、と願っているのです。


 私たちも自分のたましい、感情や意志に揺さぶられる経験をします。特に自分に敵対する者から、あなたの神はいったい全体どこにいるのか、あなたが信じている神は本当におられるのかと問いただされ、たましいがうなだれる、思いが乱れる経験をしたことはありませんか。「わがたましいよ なぜおまえはうなだれているのか。神を待ち望め。神を褒めたたえよ」と自分自身の魂を鼓舞して、神への思いを再確認しようではありませんか。


祈り

私たちのたましいは、周りから影響を受けやすい感情や意志でなりたっています、そのように、たましいがうなだれている時こそ、神を褒めたたえ、待ち望む希望で、我がたましいに力をお与え下さい。 アーメン 

文:森 宗孝


 

『主を慕いあえぐ』


 谷川の流れを慕う鹿のように...という歌を思いうかべる詩篇ですが、実はこの42篇と43篇は、もともとは一つの詩篇だったというのです。それは特に42篇5節と43篇の最後5節が、まったく同じ内容が繰り返しているのでもともとは一つの詩だったと言われています。


 恐らくこの詩は、エルサレムがアッシリアに滅ぼされて捕囚の身になっている時に祭司が歌ったのだろうと言われているのですが、確かに「おまえの神はどこにいるのか」問われているのと、ガリラヤからさらに北上したヘルモン山で故郷を思い出している様子が伺われます。そのような捕囚の中で「なぜ、あなたは私をお忘れになったのですか」と問いかけています。イスラエルの神、あなたがたの神はどこにいるのか、助けに来てくれないではないかと、そしられて過ごしているユダの民です。


 私たちクリスチャンも、あなたの信じている肝心なキリストはどこにいるのか?アーメン・ソーメン・冷やソーメンと言われて揶揄されたことはありませんか。主イエスの十字架から、すでに2千年もの時間が経っていますから、自分自身でも、主イエスはどこにおられるのか?助け主はどうされたのか?

と自問することはありませんか。


 列王記第二6章に、預言者エリシャの住む町ドタンをアラムの王が馬と戦車と大軍を送って、町を包囲します。エリシャは主に願って町の若者に対して、17節「どうか、彼の目を開いて、見えるようにしてください。」主がその若者の目を開かれたので、彼が見ると、なんと、火の馬と戦車がエリシャを取り巻いて山に満ちていた。」という記載があります。私たち主を信じる者も、天使や聖霊という目に見えない存在を信じてはいるのですが、やはり自分の目には見えないので、主の軍勢が教会を守っていたり、苦難を通されている者を守っている姿に気が付かないのです。


 アッシリア捕囚の身となった、このユダヤ人祭司もアッシリアという敵の虐げに、嘆きながらも、わが神を待ち望む、このような苦難のなかでも神をほめたたえる。私の救いは、私の神しかいないと確信しているのです。


祈り

私たちは、いつになったら神の御前に出られるのでしょう。私たちの魂がうなだれてしまう時こそ、今まで主にあって感謝したことを思い起こし、主を待ち望み、神をほめたたえることができますように。アーメン

文:森 宗孝


 

 詩篇41篇は第一巻をしめくくる歌となっています。

1節から3節の御言葉は、苦難のなかにおられる人のためへの祈る人への幸いが歌われています。

「幸いなことよ

弱っている者に心を配る人は。

わざわいの日に 主はその人を助け出される。」1節


 弱っている者に心を配ることができる人というのはそれほど多くはいないと思います。なぜなら、病気の弱さを経験したことがないとわからないからです。その道を通ってこられた人は哀れみ深く弱っている人に心を配ることができると思います。しかし、経験があるなしに関わらず、私たちはイエス様の十字架の愛を知っているから弱っている者に心を配ることができると思います。


 私も愛する子と彼女の弱さのなかを共に歩いて来た一人です。実際に弱って、苦しみのなかにあったのは娘でした。何度も何度も病院に搬送されて、ICUに入れられて、これでもかと思うような痛みと苦しみのなかを通ってきました。娘が弱っている時に教会の兄弟姉妹たちは、教会初めての連鎖祈祷をしてくださり心から感謝の気持ちで一杯になりました。そして、娘と泣きながら頑張っていこうねと言ったことがまるで昨日のように思われます。その弱さを通して、娘はイエス様を受け入れることができました。主は、娘に10年の命をあたえてくださいました。このことを通して、私は、祈ってくださった方々に、主は、彼らがわざわいの日にきっと助け出されると信じています。

 

 愛する天の父なる神さま。私たちクリスチャンが、弱っている者へのあわれみ深い心をもって、祈り、支えていくことができますように導いてください。感謝して主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン。


 
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