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Tropical Leaves

HCCディボーションブログ

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『人は死ぬとき 何一つ持って行くことはできない』


 自分自身が72歳になって、徐々に棺桶に近づいているせいか、この17節のことばに、確かにそうだと頷いてしまいました。人が生まれる時には、おぎゃ〜と言って息を吸って生まれてきますが、死ぬ時には、逆に大きく息を吐いて死ぬと聞いたことがあります。まるで神の息吹を吸って生を受け、吐いて死に至る、確かにそうだなとも思いました。しかし、その死を考える時に、ふと本当に何一つ持ってゆくことが出来ないのだろうかと思い悩みます。 もしかしたら、確かにこの詩のように、何も自分の周りの物は持って行けないかもしれないけれども、自分の心に流れる賛美と信仰は持って行けるのではないかとも思うのですが、どうでしょう。


 この世で贅沢三昧の生活をしている、一見豊かに恵まれた人もおられますし、明日の住む所も、自分の健康も、お金もない人もおられます。しかし、誰一人として、いつまでも生きられる者はいません。だれでも肉体の死に向かって進んでいるのですが、死が間近に迫らない限り、考えないようにするのが人の性なのでしょう。


 この詩人、どんなにこの世で栄華をきわめても、この世の人は、魂を贖い出すことはできないことをうたっています。確かに、私たちの救いは、人間の努力で達成することはできません。人に対して罪を犯した場合には、それは弁償したり、刑務所に入ることによって、人に対する罪の代償は払うことができますが、私たちは、人にではなく、創造主である神に対して反逆という罪を犯したことを理解した時に、はじめてその反逆の罪を赦すことができる、贖うことができるのは神しかいないと解るのではないかと思うのです。


20節「人は栄華のうちにあっても 悟ることがなければ 滅び失せる獣に等しい

私たちは神の息吹をうけて人間となっています、その主なる神のことを考えずに、朽ちていく世界の事ばかりを考え、神のことを悟らなければ、どんなにこの世でゆたかであっても、霊をうけていない獣と同じだと、私たちに語っています。


祈り

どうか、神による贖いの悟りを多くの方々が理解しますように、私たち主を信じる者たちを使われて、福音を伝える良きおとずれとなることができますように。

アーメン

文:森 宗孝


 

 詩篇48篇を読んでいて、ある賛美曲が浮かんできました。

 それは、威光 尊厳 栄誉(新聖歌166番)です。


「世界中 どこででも 新しい歌をささげよ

 主に歌え ほめたたえよ 御救いの知らせを告げよ

 まことに主は大いなる方 賛美されるべき方

 威光と尊厳と栄誉 光栄と力

 ただ主だけを礼拝せよ 天をつくりささえている主」


 詩篇48篇は、ある牧師によりますと「シオン賛歌の詩篇」と呼ばれていて、その内容は預言的だと言われているそうです。又、詩編におけるシオン賛歌は、千年王国の実現の待望なしにはそれほど意味をなしません。しかし、神は選びの民(イスラエル)が、最後には陽の目を見るようなると保障しておられます。神の約束は必ず勝利をもって成就するということです。私たちはそのことを堅く信じていくことだと思います。


「神は上られる。喜びの叫びの中を。主は行かれる。角笛の音の中を。」(詩編47:5)


 神が上られるところ、又、主がいかれるところは、エルサレムの北の端であるシオンです。そこはかつてアブラハムが息子イサクを全焼のいけにえとしてささげようとした地であり、ダビデの幕屋が置かれたところであり、又、神の御子イエス・キリストが十字架にかけられた地であったそうです。そしてキリストが再臨される場所もシオンと言われているそうです。私たちクリスチャンの基であるシオン、エルサレムは同時に私たちの母なる教会はエルサレム教会であるということを覚えておきたいところです。


 天の父なる神さま。あなたこそ唯一の賛美されるべきお方です。これからもずっとあなたの御名をあげる賛美ができますように導いてください。感謝して主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン


 

 これは希望と喜びにあふれた神様への賛歌だ。


まことに、高き方主は恐るべき方。

全地を治める 大いなる王。

国々の民を私たちのもとに

もろもろの国民を私たちの足もとに従わせられる。

主は 私たちのために選んでくださる。

私たちの受け継ぐ地を。

主が愛されるヤコブの誉れを。


 いろんなことが日々あり、問題に目を向けたり、自分に目を向けると希望がもてなくなることがある。自分の期待通りのことが起こらなかったり、それどころか、なんでこんなことがという事も起こる。誤解されたり、誤解したり、嫌なこと言われたり、知らずに人を傷つけていたり、日々なんとも忙しい。でも、このすべてを神様はご存じであり、すべてを治めておられる。神様は全き真実な方で、その御心を完全に行われる方だ。


「あなたがたの間でよい働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださると、私は確信しています。」(ピリピ人への手紙1:6)


 神様が責任をもって私たちを栄化へと導き、御国に連れ上って下さるのだ。つまり聖化の過程でいろいろあるが、私たちにはハッピーエンドが待ってるということだ。


 まさに主にあって、無償でこの恵みが与えられている。その恵みを思うときに、このコラ人のようにただただ賛美したくなる。主よ、感謝します!


天のお父様、私が神様の恵みの中に生かされていることをありがとうございます。私はすぐ目の前の出来事に一喜一憂する者です。主から目を離さず、恵みの中に留まらせて下さい。私の日々の歩みがあなたを賛美するものとなりますように、どうぞ心を整えて下さい。イエス様も御名によってお祈りいたします。アーメン


 
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