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Tropical Leaves

HCCディボーションブログ

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 詩篇52篇は、ダビデがアヒメレクの家に来た時にそこにいたサウル王の家来であるドエグが一部始終を見て、アヒメレクの家族が殺されたことをダビデが知って書かれた詩であると言われています。


 自分を親切にもてなしてくれたアヒメレク家族全員が一人の悪しき者によって命を絶たれたことを知ったらどれだけ怒りがこみ上げてくるとでしょうか。しかし当時のダビデは何もできなかったのです。その怒りと悲しみを詩に書いたのである。8節の御言葉に目が留まりました。


「しかし私は 神の家に生い茂るオリーブの木。

 私は世々限りなく 神の恵みに拠り頼む。」8節


 ダビデは、復讐するよりも、怒るよりも、自分が神の家にあるオリーブの木のことを考えたのである。いつの日も神の恵みに拠り頼むことを祈ったのである。ちなみに、オリーブの木は平和のシンボル、縁起の良さは家庭内の関係性にも良い影響をもたらし、又、虫を寄せ付けないフェノール類という化学物質が豊富に含まれていると言われているそうです。


 私たちも日々いろいろなことに遭遇することが多々にあります。そのような時には、いつも神の恵みを思いだし、すべてのことを神に拠り頼んでいけるようになることだと思います。


 天の父なる神さま。苦難のなかに陥った時にどうぞ私たちが、あなたの恵みを覚えて、あなたに信頼していくことができますように私たちの信仰を義なる道へと導いてください。感謝して主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン


 

「たとい私がささげても、まことに、あなたはいけにえを喜びません。全焼のいけにえを、望まれません。神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ、あなたは、それをさげすまれません。(16,17)


 この51篇は、ダビデの詩篇の中でも特別な詩篇です。彼はバテシェバと姦通し、その夫であるウリヤを謀殺しました。このとんでもない罪が預言者ナタンを通して示されたときの詩篇です。

 罪を自覚したダビデの必死の悔い改めが記されています。「私をあなたの御前から投げ捨てず、あなたの聖霊を、私から取り去らないでください。」(11)と、彼は、もう自分はだめだと思う中で、それでも神に悔い改めるのです。

 悔い改めるということは諦めていないということです。なんとか神の赦しとあわれみをいただきたいという切なる願いが込められています。「神よ。私の救いの神よ」(14)と、自分を救ってくれる神を信じて叫んでいるのです。

 そしては、悔い改めを通して、一つの大きな発見をしたのです。それは神が喜ばれるのは、「砕かれたたましい」だということです。幾千幾万のいけにえよりも、砕かれたたましいといういけにえが勝るというのです。


 神が喜ばれるのは、私たちの正しさではありません。神の御前に罪人にしか過ぎない私たちです。イエス・キリストによる救いがなければ、どうにも生きては行けないという自覚を持っている者が砕かれたたましいなのです。

 私たちは、どこまで行っても、この自覚を持ちつづける者でありたいと願います。イエス・キリストの十字架がなければ、一息もできないという者であり続けたいと願います。


 天の父なる神さま

 私が自分の正しさを誇ることがありませんように。あなたの御前で砕かれたたましいでありますように。それが真実なのですから。どうか、高慢の罪から私たちを遠ざけ、主を求め続ける者としてください。

 主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン

文:関真士


 

『神を忘れる者』


 神の怒り、4節「神は上なる天を、また地を呼び集められる。ご自分の民をさばくために。」そして感謝を忘れた民に告げられている忠告は、15節「苦難の日に わたしを呼び求めよ。わたしはあなたを助け出し あなたはわたしをあがめる。」


 これらのことばは、アブラハム、ヨセフ、ヤコブの神であられる、父なる神が、ご自分を忘れたかのように振る舞っているイスラエルの民に向かって、神を忘れる者への怒りを示されている。しかし、このみことばは、必ずしも大昔のイスラエルの民だけに向けられたことばではない。現在のイスラエルも神がこの世に送られた御子イエスを信じることなく、背を向けていることに対してもお怒りになっているのではないかと思うのです。


 ヨハネ福音書1章10〜11節「この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。この方はご自分のところに来られたのに、ご自分の民はこの方を受け入れなかった。」と主イエスを受け入れられなかったイスラエルの民のことを示されています。


 しかし、不思議なのは、創造主であり、大能の力をお持ちの御子イエス、救い主として来られたのに、なぜイスラエルの民は、その救いの手から漏れてしまったのかと単純に思いませんか。神が救いに来たのに、なぜ達成されなかったのか?どうして拒否されることになるのに、主イエスは来られたのでしょうか?


 異邦人伝道に導かれたパウロは、それは異邦人のすべてに福音が広がってゆき、やがてイスラエルの民も、悔い改めて、信じる者すべてが救われるチャンスが与えられ得るためであると説いているわけですが、パウロだけが、そう主張しているわけではなく、旧約聖書の預言者も語っていることを覚えましょう。


 まずは異邦人について、イザヤ書65章1節「わたしを尋ねかかった者たちに、わたしは尋ね求められ、わたしを探さなかった者たちに、わたしは見出された。わたしの名を呼び求めなかった国民に向かって、『わたしはここだ、わたしはここだ』と言った。」イスラエル民族以外の異邦人に神が尋ね求められると預言されています。


 ゼカリヤ書12章10節「わたしは、ダビデの家とエルサレムの住民の上に、恵みと嘆願の霊を注ぐ。彼らは、自分たちが突き刺した者、わたしを仰ぎ見て、ひとり子を失って嘆くかのように、その者のために嘆き、長子を失って激しく泣くかのように、その者のために激しく泣く。

 ここでは、突き刺された十字架のイエスを示しており、わたしを仰ぎ見てとありますから、御子イエス、神であられる主のことをさし示しています。


 主イエス自身が、やがてイスラエルの民が、主を呼び求める時に、もう一度来られるとも約束されています。ご自分の民が、主イエスを受け入れなかったことで、逆にイエスの福音が世界中に、迫害を受けて世界中に散っていった、弟子達をはじめ教会員によって広められました、世界伝道によって多くの人が救われるためです、そしてやがてイスラエルの民の民族的な悔い改めが起こった時に、苦難の日にわたしを呼び求めよ。わたしはあなたを助け出し、あなたはわたしをあがめる。神の奥義の深さとそれに関わる年月はあまりにも深いものでした。


祈り

どうか神が選ばれた民である、イスラエル民族が、主イエスを呼び求める日が、1日も早く到来しますように! 主イエスの再臨を待ち望みます。 アーメン

文: 森 宗孝


 
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