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Tropical Leaves

HCCディボーションブログ

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「あなたの重荷を主にゆだねよ。主があなたを支えてくださる。主は決して

 正しい者が揺るがされるようにはなさらない。」


 詩篇55篇で、ダビデは悲嘆に暮れ、泣き叫ぶ祈りへと変わっています。そして、逃亡に疲れ切ったダビデはのがれ場をさがし求めていきます。まず、のがれ場を鳩のように翼で飛んでいくことができて、休むことができる場を求めていきます。しかし、そこには本当の解決はありません。又、のがれ場を親しい友人に求めていきます。だがそれも裏切りにあって願いはかないませんでした。


 昔、テレビで「Fugitive、逃亡者」というドラマがありました。デビッド ジャンセン主演で、妻の殺人容疑者の濡れ衣を着せられ、医者の地位から一変して逃亡者になっていく物語でした。いろんな所を転々としていくが、いつでも追ってから逃げていく戦いを家族みんなで手に汗を握る思いで見ていたことが思いだされました。余談になりましたけど、言えることは、いつになったら身の潔白が明るみになって堂々と人前を歩くことができるだろうかということです。そのためには、本当の最後ののがれ場を見出すことです。それは、涙をながすことでもなく、休む場でもなく、友人でもないのです。

ダビデは16節で最善ののがれ場にいきつけたのです。


「私が神を呼ぶと 主は私を救ってくださる。」16節


 絶対的なのがれ場は、主なる神、主イエス・キリストです。十字架のもとに行きつくことです。主に重荷をゆだねたら絶対的なのがれ場を私たちに見出させてくださいます。


 愛する天の父なる神様。ダビデの信仰を通して、私たちに確実なるのがれ場を見出させてくださって感謝します。つらいとき、逃げたくなるときに私たちがその重荷をあなたに委ねていくことができますように助けてください。感謝して主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン


 

 以前、牧師先生が、「イエス様が共におられます。あなたのどの位置にイエス様はおられると思いますか」という質問があった。イエス様は私にとっては、宇宙服のように全身すっぽり包んでいて下さる感じがする。そして特に最近は、常にハグして下さっているような感覚である。でも時々、自分から宇宙服を脱いでしまったり、人に又は状況に剥ぎ取られたような感覚に陥る時もある。


「愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制は、御霊の実9つである。」(ガラテヤ5:22-23)


 人間は感情の生き物だとはよくいうが、喜び、悲しみ、怒り、恐れ、嫌悪、驚きなどの基本感情がある。しかもこれらが入り混じった複合感情というやっかいなものまである。ある精神科医によると、人は恐怖とエキサイトメントの区別が曖昧な時がある。なのでホラー映画を好む人がいると説明してくれた。


 さて、54篇の時代背景であるが、52篇から続き、祭司エブヤタルが、エドム人ドエグの大虐殺からダビデのもとに逃れてきた時のことである。なぜダビデは逃れなければいけなかったのか、それはサウルの嫉妬が原因である。


 サウル王は自分の軍隊の隊長にダビデを選んだほどダビデを信用していたのに、彼の功績に嫉妬し、敵意を持ちペリシテ軍との戦いに殺すべくして送った。死んでしまえばよい、という強い敵意に変わった。ダビデが戦いを終え無事街に戻ってくると、女たちは『サウルは何千人も殺したが,ダビデは何万人も殺した』と歌ったという。

 この頃、一番立場の弱い異性である女たちがそう言って歌った。さぞや屈辱であったろう。サウルは「ダビデさえいなければ、俺が一番」と、嫉妬し敵意を燃やしたことだろう。


 ここで目に留まったのが、3節:

「見知らぬ者たちが 私に立ち向かい横暴な者たちが 私のいのちを求めています。彼らは神を前にしていないのです。セラ」

 見知らぬ者とはダビデがジフの荒野に逃げこんだ時、そこに在住のジフ人たちがダビデを裏切り、ダビデの居場所をサウル王に知らせた。横暴な者とはサウル王の軍隊でダビデの命をとろうとしている。彼らは神を意識していない、という解説である。

 相対して、どんな逆境にあっても、いつも神様を信頼し意識して、祈り求めているダビデに感動する。

 そして7節:

「神がすべての苦難から私を救い出し私の目が敵を平然と眺めるようになったからです。」

 すべての苦難から自分を救い出してくださる神にゆだねることによって、かえって安心して、「私の目が私の敵をながめる」余裕が生まれる。神のさばきに訴えることがすべての始まりだとの解説を読む。


祈り:

愛する天の父なる神様、私たちはしばしば自分の正義を訴えることで争いを加速させてしまうことがあります。主の公正なさばきに信頼して、誠実を尽くす歩みへと導いてください。主であるイエス様はブドウの木。感情や行動ではなく、聖霊の内的な働きによって御霊の実がなるブドウの枝とさせてください。

文:マッカーター政子


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参照

 

 詩篇53篇と詩篇14篇とはほとんど同じです。しかし、今日はこれら二つの詩篇には微妙な違いがあることを見てみましょう。


 まず14篇の著者は神を「主」と呼び求めています。53篇では「神」です。ヘブル語では「ヤ―ウエイ」と「エロヒーム」の違いです。聖書の中で「神」とは無限の永遠の創造主を意味していて、「主」とは、この同じ神との個人的な関係の中で呼びかける名前だそうです。それは、14篇はダビデが私的に神への称賛と感謝を歌ったもので、53篇は同じものを公的に、多くの人々に伝えるため読むことを目的とした詩であるということだそうです。


 最近私たちは礼拝の中で「主のまことはくしきかな」という歌を賛美しましたが、同じ歌でも、古い題名の「父の神の真実は」よりは、少しだけ神が自分の近くに感じられました。


 53篇は、14篇より後の時代を反映するため、幾分か修正されたものだそうです。14篇はまだ起こっていないことを願い求める祈りであるのに対して、53篇はそれがもう既に起こったもの、経験したものとして、具体的で結果的に歌われています。


 特に5節でそれが明白にわかります。愚か者が単に「恐れた」のではなく、「神があなたに陣を張る者の骨を散らされた。あなたは彼らを辱めた。神が彼らを捨てられた」とあります。即ち「神はいない」という愚か者に対しての神の報復が事実として下されたのです。


 即ち、信仰とは神への単なる願望だけではないということ。祈り求めることは、神の御力によって、必ずやがて具体的な結果として確かに経験できるまでに至ると信じることだと思います。「ああ、イスラエルの救いがシオンから来るように」という神への切なる願いが、確かに、「神が、あなたに対して陣を張る者の骨をまき散らされたからだ。あなたは彼らを辱めた。それは神が彼らを捨てられたからだ」と勝利を宣言させてくださるのです。へブル書11章1節の聖句「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。」を思い出させられます。そしてマルコの11章24節でイエス様が言われたことをも思い出させてくれます。「だからあなたがたに言うのです。祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。」



愛する天のお父さま、拙い私たちですけれども、あなたを「主」と呼んで、私たちの願いを祈り求めることのできるこの特権を、またそれを経験できる事実として与えてくださるあなたの恵みと憐みを感謝します。アーメン


 
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